:星のふる里



初めて降り立ったその地を眺めて、彼は瞬いた。
何よりもまず、空が明るい。空気は暖かく、澄んでいる。ほどよく涼しい風は、少し強い。その風が灰色がかった草を揺らし、足元を吹き抜けていく。草原が海原のように、大きく波打つ、その中心で。
彼はぽかんと口を開け、ただ辺りを見回していた。

その透明な明るさは、彼が初めて目にするものだった。彼が知っている世界とは常に暗く、澱んで湿ってぬかるんでいるものだったから。

(…綺麗だな)

素直に浮かんできた感想を呑み込み、それからふと苦笑する。

(…なんて、そんなこと。あいつらには聞かせられないな…)

一歩、踏み出してみる。歩き出す。
乾いた大地は固かった。草はサヤサヤと涼しい音を立てている。何やら嬉しくなってきて、彼は足を速めた。風が背を押す。しまいには駆け出していた。見上げれば空は輝くほどに青く、流れて行く雲は陰影に富んでいる。その眺めもまた美しい。

そう、美しい世界だ、と彼は独りごちて笑った。今、何もかもが美しい。
仲間が見たら、子供っぽい喜びだと笑うだろうか。しかし彼らだってこんな光景は見たことがないだろう。今回ぐらいは一緒に喜びを分かち合えるのではないか。

しかし――

彼は立ち止まった。カチャリ、という音に気付いて腰に手をやる。そこには剣が揺れている。幾度も共に死線をくぐり抜けてきた、大切な相棒。
そうだ、と思い出すでもなく思い出す。自分には使命があるのだった。美しさや明るさ、そんなものを堪能するためにここへ来ることを許されたのではない。この肩には、この感動を一生知ることもない何万もの命が、その希望が――かかっている。

「…そうだな」

誰にともなく頷き、視線を遠くにやる。午後の日差しに照らされた、名も知らぬ山脈とその影とが見えた。
ああ美しい、と、それでも呟く自分の心の声に苦笑しながら、とりあえずそちらに方向を決めて体を向ける。風がその背を強く押す。
美しい世界がある。重い使命もある――それらはさておき、手始めにしなくてはならないこと。

「…行くか」

風に追われて歩き出す。足取りは軽い。
はぐれた仲間達と合流すること。それが目下、彼に与えられた最重要かつ危急の使命なのだった。



*




もう、何時間たったのだろう。

彼女はその晩、どうしても眠る事が出来なかった。
ベッドの淵に腰掛け、落ち着きなく窓の外を見る。新月の夜空は漆黒で、今夜に限っては星も見えない。それに、いつもなら森がざわめく音が遠く、断続的に聞こえてくるのに、今夜はそれさえもない。窓を揺らす風もない。
皆が寝静まった家も、村さえもどうしようもなく静かで、聞こえるのは壁にかかった時計――まだこの村では珍しい物だ――の規則正しい、冷たい音だけ。
自分の鼓動が聞こえるようだ。自分も早く眠りたい。眠って、早く明るい朝日の下に出たい。そうすれば、この不安からは解放されるだろう――けれども。

予感がする―――

真っ暗な部屋で、少女は一人、息を殺して何かを待った。
何かが来る。何かが、起こる。そんな予感がする。それがいい予感なのか悪い予感なのか、それすらも彼女にはわからなかったが。
彼女は拳を握った。何が起きても――何も起きなくても、自分はそれを見届けたい。いや、見届けなくてはならない。
――きっと、と彼女は思った。
きっと、この「何か」に気付いているのは村の中では自分だけだ。それは決して偶然などというつまらないものではなく、運命なのだろう。
あるいは、それは死なのかもしれない。ごく自然に、そういう思いが浮かんだ。
彼女にとって、死は少しも縁遠いものではなかった。この心臓――すぐに義務を放棄したがる、怠け者の心臓を持って生まれたその日から、死はいつでも彼女のすぐ傍にあるものだったのだ。
今だって、この気まぐれな心臓は突然止まらないとも限らない。それが恐ろしいから、彼女の母親はいつもすぐ隣の部屋で寝ている。

だが彼女は、これまでにそんな局面には何度となく遭ってきたから、今さら怖いとは思わない。生とは所詮、一秒ごとに起こる奇跡の積み重ねに過ぎない。運命には逆らわない。
ただ、自分は何のために生まれてきたのか――そう考える時もある。何もせず、死ぬ為にだけ生まれた――そんな意味のない生があっていいはずがない。自分の短いかもしれない生にも、何か特別な意味があるはずなのだ。
だから、もしもここで「何か」が起こるならば、それは彼女に関係する事なのに違いない。

それは理屈ではなく、彼女の信念だった。
例えそれがどうでもよいことだったとしても、重大な報せをもたらすにしても――

(―――――…?)

彼女はふと、窓の外に向けた目を細めた。
小さな稲妻が空を走るのを見た気がしたのだが、その後について来るはずの音がしない。気のせいだったのだろうか――

――と、思ったところでまた光った。窓一杯を紫色に染める、大きな稲妻。
彼女は目を見開いた。それは一瞬の出来事だったが、彼女はそれを心に永遠に焼け付けた。
今度は間違いない。
彼女は思わず立ち上がると窓辺に走り寄った。耳を澄ましてみるが、外は相変わらずの静寂。
雷特有の、あの恐ろしい大きな音は聞こえない。

何かが、おかしい――

彼女がさすがに薄寒いものを感じ、窓を離れた時だった。
ドンッ―――
と聞いた事もないような轟音が彼女の耳を襲った。同時に激しい縦揺れ。
洋服箪笥が倒れ、窓ガラスが割れて飛び散り、棚からは本が雪崩れのように零れ落ちる中で、流石の彼女も悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
揺れは長く続いた。古い天井や柱、それに床がギシギシと壊れそうな音を出している。家が分解しそうだ。重くて堅いものが床に当たり、砕ける音がする。同時に玩具の鳩が鳴く音――それが狂ったようにやまない。壁にかかっていた時計が落ちて壊れたのだろう。

――あの予感はこれだったのだろうか。不意に、そんな考えが起こった。
普段、地震など滅多に起こるものではない。一族が三代に一度、経験するかしないか、と言われるほどだ。それを彼女の本能が予見していたのだろうか?
――違う、と彼女は打ち消した。
地震より、あの雷だ。あれはなんだったのか、それが気になる。
音のしない、紫色の大きな雷。
あんな雷が普通、あるのだろうか。それよりもあの不思議な雷がこの地震を引き起こしたのでは――

揺れは数分続いたように感じたが、あるいは数十秒に過ぎなかったのかもしれない。
とにかく、激しい揺れはやがて収まり、彼女の母親が隣の部屋から駆けつけてきた。
怪我は無いか、大丈夫だったかと母の投げかける質問に上の空で答えながら、彼女はじっと壊れた窓の外を見つめていた。そこから、今は冷たい風が流れ込んでくる。さすがに村も目覚めたらしい。その騒ぎこそここまでは届かないが、明かりがぽつぽつ見え出した。皆、広場に集まって被害状況を確認しているのだろう。
それでも、この部屋に限って言えば、何もなかったかのように元通り。いや、以前にも増して静かで――時計の音さえ、もう聞こえない――そして真っ暗な空が見える。

漆黒の空。
そこには、あの稲妻はもう無い。


*


「これは…食べられるのかな?」

彼は見慣れない植物――キノコの類――を摘み上げると、目の前でしげしげと眺めてみた。もちろん、それで何かがわかるわけでもない。
ピーピーと高い声で鳥が鳴いている。

「まあ…いいか」

少し色が毒々しいのは気になったが、彼はあまり気にしないことにして手にした麻袋にそれを詰めた。
袋の中には、これまで詰め込んできた色々な植物がごちゃごちゃになって入っている。
ぐうう、と彼の胃が鳴いた。

「どれか、今すぐ食べては駄目だろうか…」

彼には今、食糧が切実に必要なのだった。なにしろ仲間とはぐれてからこのかた、かれこれ2日間も絶食状態が続いている。
しかしそれは彼だけではないはずだ。今はいないが、別の場所にいる仲間達も皆同じように苦しんでいるのだろう。むしろ、そうでなくてはならない。
だが、それ以上に切実なのは「この中のどれなら食べても大丈夫なのか」という知識だった。彼はこの土地には不案内だし、植物の派生等も全く知らない。中には彼の遠いふるさとで見かけたものにそっくりなものもあったが、こういった場合「見た目が似ているだけかもしれないから用心するように」と仲間に言い渡されている。うっかり毒草など食べてしまえばそこで終わりなのだ。

彼には使命がある。

「でも、これなんかは…」

彼は掌に、小さな茶色の木の実を乗せた。それは表が硬い殻で覆われている。
彼の故郷ではナッツと呼ばれる木の実だった――少なくとも見た目は全く一緒と言って良いくらいだ。この殻を砕いて中身を取り出し燻ったものを、彼は幼い頃よくおやつとして食べていた――それを思い出す。彼の胃が、またきゅううっと鳴った。

「…いや、もう少しだけ我慢しよう」

もう少しで皆とも会えるような気がするし、と自らに言い聞かせる。
彼は木の実を袋に戻すと、なんとなく空を仰いだ。――正確には空のある方、空を視線から隠し続ける梢や葉の方に。
随分長い間、空を見ていない気がする。もう2日もの間、この深い森に囚われているのだ。
彼は深く息を吐いた。今は無性に空が見たい。ここへ来て初めに見た、あの美しい空。

「一体、いつになったらこの森から出られ――――?」

彼は立ち上がると、すぐ近くの幹に身を寄せた。
ぱた、ぱた、ぱた、と軽い足音が近付いて来る。隠れたまま様子を窺うと、それはどうやら人間のようだった。
ただし、彼の仲間ではない。――彼の仲間に、「少女」はいない。彼は少し力を抜いて瞬きした。
それは、本当に普通の少女だった。武装もしていないし、旅装ですらない。長い三つ編みにした緑の髪を背に跳ねさせ、はずむように歩いてくる。年は十七、八と言ったところだろうか?ただの村娘と言った風情だったが、何か良い事でもあったように微笑みをにじませる顔は充分に彼の目を引いた。

(――――!)

不意に少女が彼の方を向いた気がして、彼は慌てて木の陰に身を隠した。だが、彼女は彼の存在に気付いたわけではなかったらしい。彼女の視線はすぐに逸れた。
なんとなく胸を撫で下ろし、考える。

――どうして、こんなところに娘が。近くに村でもあるのだろうか?

だとしたら好都合だった。
上手く行けば食糧がもらえ、さらに上手く行けば仲間の情報がもらえるかもしれない――欲しくてたまらなかった情報が。何しろ彼の仲間は、否応なく目立つ連中だ。こんな山奥なら尚更人目を引くだろう。

(――よし、あの娘に話し掛けろ)

彼は自分自身に命じた。

(少しだけ事情を話して…できれば、何か食べるものをください、地図を見せてもらえませんか…いや、できれば村の場所なんかも…)

話すべきことを整理している内に、段々うんざりとしてきた。
ただでさえ、彼は女性との会話には慣れていない。しかし、この状況ではそうも言ってはいられない。
話す内容を何度も頭で反復してから、彼はようやく緊張した顔を上げた。

「ええと…君、申し訳ないんだが…」

「きゃああああああ!!」

驚かせてしまったかと身を引くが、すぐにそうではないと分かった。
何故なら、娘はとっくに彼の前を通り過ぎ、かなり遠くまで行ってしまっていたのだから。

「……あれ?」

彼は一瞬、呆けたように首を傾げたが、すぐに気を取り直して麻袋を握った。
悲鳴はあの娘のもので、遠くから聞こえた。何かが起こったのに違いない。それも多分、あまり良くないことが。

(急いだ方が…いいんだろうな…)

駆け出しながら、彼は前方を凝視した。本人は気付かないが、眠た気に曇っていた目付きが鋭く尖っていく。
片手がふと無意識のように腰の剣鞘を撫でた時、彼の目は完全に戦士の目と化していた。



*



こんなはずじゃなかった―――

彼女は地面に座り込んだまま血で汚れた自分の膝を見つめ、軽い後悔を覚えて唇を噛んだ。前に落ちてきた三つ編みを背に払い除け、キッと前方を睨む。
目の前にいるのは、ふかふかの尻尾に大きな前歯を持った愛らしい生き物。地元ではナッツイーターと呼ばれている。
それがシューッと威嚇するように唸り声を上げると、辺りの草むらから同じような唸り声が次々に上がる。

彼女はナッツイーターの群れに包囲されていた。彼らの目付きに、友好性は微塵も宿っていない。

食べられちゃうのかな――と彼女は思い、自分の冷静さに内心驚きながら苦笑した。
死ならばいつでも受け入れられる。一方で、自分はまだなんとかなるとどこかで信じている。少なくとも…そう、ナッツイーターは肉食ではないはずだ。
そもそも、ナッツイーターとは生物学上魔物に分類されているものの、大人しい性質をしているものなのだ。彼女自身、何度もこの森でナッツイーターの子供を集めて戯れることがある。縄張り争いでさえほとんどしないという温厚な彼らが、突然どうして集団で襲い掛かってきたのか――

(あの雷……)

ふと思いついて、彼女は目を見張った。この間、夜中に一人で見た紫色の不思議な雷を思い出したのだった。
もしかしてあの雷は地震を起こしただけではなく、ナッツイーター達を凶暴化させる力を持っていたのではないだろうか。そんな事が本当にあり得るのかは分からなかったが、それが一番自然な考えのように彼女には思えた。――ならば、それを調べるのは彼女の使命に違いない。

じり、と目の前のナッツイーターが迫る。こいつが長なのだろうか。
彼女は傷つけられた膝を庇いながら後ずさった。

なにはともあれ、今襲われていて危険だという事実は変わらない。なんとかして逃げなくては。
彼女はすばやく辺りを見回し、少し離れた地面に太めの枝が落ちているのを見つけた。あれを武器にして逃げられないだろうか。何も相手を傷つける必要はない。少し脅かして、退散させればいいのだ。
ちらり、と彼女はナッツイーターの様子を窺った。どうやら興奮している様子で、彼女が何かすれば反応して飛び掛ってこないとも限らない。
彼女は相手に気づかれないように、そろそろと腕を伸ばした。ナッツイーターは気付かない。
あと少し――もう少しで届く…

「キィッ!」

警戒したような鳴き声に、彼女は指先に触れた枝を弾いてしまった。

(しまった―――!)

動きがばれたのかと頭を抱えたが、いつまでもあの前歯が襲ってくる気配はない。怪訝な思いで彼女が顔を上げると、目の前のナッツイーター達はキョトンと彼女の横を見ている。彼女はつられてそちらに目をやり――空中でジタバタともがくナッツイーター達の長と、それをしっかり捕まえた武骨な手を見た。

「…ふむ」

誰にともなく、そのナッツイーターを捕まえた男が頷いた。その声は外見通り若いのだが、その口調だけは何故かもっと年を経た人間のように落ち着き払っている。

「他の奴等が襲ってこない…という事は、恐らくこいつが長なのだろうな…」

「あ…あの…?」

「…さて、こいつをどうしたものか…」

彼女は困惑して相手の男を見た。
見覚えは無いが、一体何者なのだろう。二十は超えているだろう、青年だった。癖のありそうな髪を無理矢理のように後ろで束ねている。剣を帯びているところを見ると戦士のようだが、一体何をしているところなのか。
もしかして―――助けに来てくれたのか。

「えーと…そこの君」

短い手足で暴れる小さな魔物を片手に、男は全く表情も変えずに彼女に顔を向け、僅かに首を傾げた。

「こいつは…どうしたら良いのだろうか」

「……えーと?」

彼女はますます困惑してしまった。
見た目の若さを裏切る、老成した口調――けれど、その態度はまだ世間知らずの、小さな子供のようだ。

「あの…どうしたらいいとは、どういうことですか?」

「え…だから」

男も少し困惑したように声を低めた。

「もし、こいつが今までも人を襲っていて、そしてこれからも人を襲う危険性があるならこの場で斬るし。もしそうでないなら」

「だ、ダメよ、殺さないで!」

彼女は慌てて立ち上がった。確かに怪我は負わされたが、それは彼らが自分達の意志でやった事ではないのだから。
―――あの、雷。

「この子達、確かに今日は変だけど…いつもは全然違うんです!本当は人なんか襲ったりする生き物じゃないんです、ナッツイーター達は」

「…はあ」

男は気圧されたように手の中の生き物を見つめ、小さく息を吐いた。

「そうか…お前は、ナッツイーターというのか…」

彼女は完全に呆れて男を見た。まさか、全国どこにでも生息しているナッツイーターを知らなかったのだろうか?

「よし、じゃあ…ほら、行け。この人に感謝するんだぞ」

男に放られると、ナッツイーターは見事に受身を取って着地してみせ、悔しそうな唸り声を上げながら仲間達の方へと走り去っていく。
胸で腕を組んでそれを見送りながら、男はまたもや溜息を吐いた。

「さて…これからどうしようか」

「? 何が…」

「今放した奴が、仲間達を連れて仕返しに向かって来てるんだが…」

「ええっ!?」

彼女が驚いて見ると、確かに大勢の怒りに燃えたナッツイーター達が膨れ上がり、殺意剥き出しで押し寄せてくる所だった。見たことはないが、津波とはこういうものなのかもしれない――などと関係ないことを思い浮かべる自分の頭を振って正気に戻してから、彼女は頭を上げた。
男を見る。ちょうど男も彼女の方を見たところだった。

「…逃げるか?」

こんな時なのに、あまり困っている様子ではない。なんとかなるさ――そう言っているようだった。単に鈍くて危機感を感じていないだけなのかもしれないが。

「…そうですね」

それでも別に、不快な気はしなかった。騒がれるよりは、却って冷静さを取り戻せるような思いさえする。彼女は素直に頷いた。

「でも私、走るのは苦手で…」

「そうなのか?」

彼女は頷いた。――激しい運動は、医師から禁じられている。

「まあ、苦手ならしょうがないか…」

男は持っていた麻袋の口を開き、中から何粒もの木の実を取り出した。
そしてそれらを、素早く放った――自分達と、駆け寄ってくるナッツイーター達の間に。罠だと警戒したのか、ナッツイーター達が速度を緩める。やがて木の実まで到達すると、完全に動きを止めた。恐る恐る鼻を近づけ、クンクンと嗅いでいる。

「…よし、今だ」

「え…?」

突然横向きに抱き上げられて彼女は焦ったが、何か聞く前に男は風のように走り出していた。
あっという間に、茶色の小さな魔物達の姿が見えなくなる。自分は全く足を動かしていないというのに、木の幹や葉の緑が視線の端を凄まじい速さで横切っていく。
彼女は自分の長い二本の三つ編みが後ろになびいているのを、不思議な思いで見つめた。

―――どうなってるの?

彼女はそっと男の横顔を見上げた。会ってから表情も変わらない、走り出してからは一言も口を利かないが、一体どこへ行くつもりなのだろう。

「あいつらは、『ナッツ』イーターと言ったな」

不意に男が口を開いた。

「たまたまナッツらしき木の実を持ってたんで投げてみたが、どうやら足止めできたようでよかった」

「あの…」

彼女は決心して口を開いた。

「どこへ行くんですか?こっちに行っても、多分…どこまでも森があるだけですけど」

「…………」

男は気まずそうに黙りこんだが、すぐに聞き返した。相変わらず表情は変わらないまま、

「…では、どちらに行けばいいだろう?君はどこから来たんだ?」

「あっちです」

彼女は迷い無く、ある方向を指差した。

「南です。私の住んでる村があっちの方にあるんです」

「では、そこまで送って行こう」

男はくるりと向きを変えると、そのままの速度で進みだした。
サク、サク、サク…と規則的に踏まれる枯葉の音を聞いていると、揺りかごに揺られてでもいるようで、ぼんやりしてくる。
もうナッツイーター達は追ってこない。走る必要はないのだから下ろして欲しい、と頼むことさえ忘れていた。

「――…見えた。あれか?」

彼女がハッと気がついて頭を上げると、梢の間から古い屋根がいくつか顔を出しているのが見えた。

「あ…はい、そうです…」

彼女はそわそわしながら男を見上げた。

「…すみません。私、ぼんやりしていたみたいで…」

「問題ない」

男は答えると、ようやく足を止めた。話している間に、村の入り口にたどり着いていた。

「…ここまでで、いいだろうか」

「あ…はい!いいです!」

彼女は慌てて下ろしてもらった。冷静になって考えてみれば、こんなところを村の人間に見られでもしたら大変な騒ぎになってしまう。何しろ小さな村なのだ。当分の間――下手をすれば何年間でも話のタネにされてしまうだろうことは目に見えている。
久し振りの地面に一瞬足がぐらついたが、それもすぐに直った。

「では…な」

「ま、待ってください!」

さっと背を向ける男の腕に、慌ててしがみつく。
なんだ?とでもいうように男が振り向いた。

「あの、何かお礼をさせてください!」

「…別に、お礼が欲しいわけじゃない」

彼女は「ではな」と再び背を向ける男を急いで捕まえなおした。

「…なんだ?」

「あの…せっかくですから、うちで昼食でも」

「…悪いが…」

「なんなら、お茶だけでも!」

ぐう、と男の腹が鳴る。
男が困ったように彼女を見、元来た森の方を見、それから小さく溜息をついた。

「なんといえばいいのか…その、申し出はとてもありがたいんだが…」

「だったら!」

勢い込む彼女を遮って、彼はまた溜息をついた。

「森で、仲間とはぐれたんだ。彼らを探さなくては。彼らもここに来るといいんだが…しかし、一人だけ今ここで楽をしているわけにはいかない」

「そう…なんですか…」

彼女は俯いた。

「それなら、仕方ありませんよね」

では、これでお別れなのだ。彼女ははっきりと落胆した。
何故かはわからないが、もう会えないだろうことが自分でも不思議なぐらい悲しい。

(――単なる通りすがりの命の恩人、なんだけど…)

男は黙って立っている。このまま去るつもりだろう。
何か言わなくてはと彼女は俯いたまま、必死に考えた。

「…じゃあ」

サク、と男が踏み出す。村とは反対の方角へ、一歩、二歩、三歩……五歩を数えた所で、彼女は我慢ができなくなった。

「あの!」

思わず大声を出した彼女を、男が不思議そうに見返る。

「ん?」

「私、ステラと言います!姓はノイア……ステラ=ノイアです」

「…ステラ」

男は小さく繰り返すと、眩しい物でも見るように目を細めた。

「…なるほど、確かにステラという感じがする」

「そ、そうですか…?」

「…恐らく」

「恐らく…ですか?」

ステラは思い切り混乱してしまったが、男はどこか余裕すら漂わせて立っている。それどころか、うっすら楽しそうに笑っているようにも見える。
それはステラが覚えている限り、初めて見た彼の笑顔となった。

「…じゃあ、私も名乗った方が良いのかな」

ふと思いついた、というように男は呟き、一人で頷いた。

「私はドルガン。おかしな名前だろう」

「ドルガンさん…?いえ、別におかしくはないですけど…」

ステラは笑いながら、相手の真似をしてひょいと肩をすくめて見せた。

「…変わった名前だなぁ、とは思います」

「そうだろう」

ドルガンと名乗った男は気にする様子もなく、それどころかどこか誇らしげにさえ見える様子で頷いた。

「そもそもこの名前は私が生まれる時、私の両親が―――」


「ドルガン!?」


ドルガンは口を噤んで顔を上げ、ステラも釣られて振り返る。
村の入り口に、知らない青年がいた。目を丸くして立っている。今、叫んだのは彼なのか――ステラは目をしばたたいた。
「知り合いですか?」と聞こうとして見ると、ドルガンは心底驚いたような、呆れたような顔をしていた。

「……ゼザ…か?」

「見て分かるだろう」

少し早口で相手が返す。

「いかにも私はゼザさ、他にどう見える?」

「そうか…ゼザなのか…」

ふうー、とドルガンが長く溜息をつく。

(……ゼザ?)

ステラが訳も分からずに二人を見やっていると、ゼザと呼ばれた方の男がふと彼女を見た。
ドキリとして後ずさる。彼は涼しく尖った目、くっきりした鼻筋、無駄のない眉、日焼けのない白い肌に細い輪郭――要するに驚くほどの美貌の持ち主だった。眩しい金髪をサラリと後ろに流し、微笑む。

「おや、お嬢さんは…もしかして村長の娘さんか?」

「…そう、ですけど」

彼女は慌てて開きっぱなしの口を閉じ、上目遣いに彼を見上げた。
――どうにも、この美貌には裏があるように思えてならない。

「…でも、どうしてそんなこと知っているんです?」

「何故も何も」

彼はふっと笑んだ。どこか冷たさの残る、鋭い笑顔。それは本人も意図しているものではないのだろうが。

「昼前、村の畑に行くと言って家を出たまま行方不明だとかで、いま村中が総出で捜しているという…」

「え…大変!!」

ステラが叫ぶのと、ドルガンが「あ」と彼女の背後を指差すのは同時だった。
釣られて背後を見やると、両親が並んでこちらに歩いてくる所だった。その顔は明らかに、無鉄砲な娘への怒りに満ちている。――ふと目をやると、ドルガンが同情するように苦笑していた。彼女は苦笑を返し、それから深々とため息を吐いた。



*



それから勝手に森へ行ったことを延々と責められ、それから両親に脇を固められながらステラ捜索に当たってくれた親切な村人の家を一軒一軒回ってはお詫びの言葉を述べてまわり――そうして日暮れ頃、ようやく解放されて家に戻った時、ステラはさすがに心底ホッとした。両親はまだ帰ってこない。皆は笑顔で許してくれたが、実際はなんだかんだで両親達は後始末があるらしい。責任を感じないわけではないが、心から反省したわけではない。何しろ自分には使命があるのだ。
疲れた体で、ふらふらと応接間へ向かう。そこは既に明かりがついていた。

「ご苦労様」

慣れない声にギクリとして見ると、何故かそこにゼザがいた。何故か父親専用のソファにゆったりと腰を下ろし、これまた何故か湯気の上がるカップを手にしてくつろいでいる。まるで彼がこの家の主のようだった。相変わらず、あの冷たい笑顔を浮かべている。

「えーと…」

事態が理解できずに部屋を見回すと、その向かい側、母親の座る席にこれまた見知らぬ男が座っているのが目に入った。歳は30そこそこだろうか。人懐こそうな顔に、陽気な目をしてはいる。目が合うと大きく微笑み、丁寧に頭を下げてくる。わけもわからずそれに頭を下げ返しかけたところで、さらにわけのわからないものを見てしまった。
――いつも自分の座る席に、大きな狼が座っている。
ふっ…と気が遠くなりかかったが、なんとか踏み止まる。よく見れば、その狼はきちんと衣服を身に付けていた。きっと人間がふざけて狼の着ぐるみをかぶっているだけなのだろう。そうでなくてはならない。

(…一体、何なの?)

それからやっと、隅の椅子にドルガンが小さく座っているのを見つけた。目が合うと、どこか済まなそうに小さく笑う。すっかりなじんだ顔に、ステラはなんとなくホッとした。
ホッとしたついでに訊いてみる。

「あなた達が、ドルガンさんのはぐれたお仲間さん…ですか?」

「ちがう、ちがう」

笑いながら否定したのは、陽気な目の男だった。
首を傾げるステラに、ゼザが付け加える。

「はぐれたのはドルガンだ。あいつの方が、私達の仲間なのさ」

「…はあ」

「朝散歩に行くと出かけたっきり、いつまでたっても戻らんでなあ」

愉快そうに続けたのは、狼の着ぐるみ男だった。ガラガラとしわがれた声で、年齢は――これは、着ぐるみの外見からは分かるはずもない。ただどういう仕組みなのか、話に合わせて牙が見え隠れするし、まるで生きているかのように表情も次々に変わっていく。きっと都会へ行けば、こんな素敵な人形も売られているのよね――ということにして、ステラはそれ以上深くは考えないことにした。

「半日待っても戻らん、一日待ってもまだ戻らん。…それで、まあ、どっかで底なし沼にでもはまったんじゃろーということでワシらも出発してな」

「まあ沼はないにしても、道行く途中で見つかるかもしれないし、と、そう思ったんだがな…」

ゼザがちらりとドルガンを見やる。部屋の隅で、ドルガンは可哀相なほどに小さく縮こまっていた。
こうして見ると、どうやら彼がこのグループ内での最年少らしい。そのせいだろうか、仲間の言葉にいちいち反抗する姿勢すら見せない。

「ドル坊にゃ、『まとも』を期待するだけ無駄じゃろ。青さもお固さも単純さも、そういうことだけはどれも天下一ときてからに…おまけに、ぼんやり屋と来とる。どうせ迷子になったのも、その辺りで蝶でも追い、雲を追いかけしている内に戻れなくなったんじゃろ」

狼が笑い、残る二人が爆笑する。ステラが呆気に取られているのに気付いたのか、陽気な目の男がそれとなく笑いをおさめるように補う。

「まあ、この村で会えたのは良かったじゃないか」

「ああ…それもそうだな」

「本当にな。お前の運の良さ、それだけはドル坊も誇っていいと思うぞ」

そこでまた三人が爆笑する。ドルガンは相変わらず黙っている。いい加減その笑い声が耳障りになってきていたステラは、たまらず声を上げた。

「…あの!」

ん? と四人の視線が一斉に集中する。ステラは少々の居心地の悪さを感じながらも、続けた。

「皆さん、どうしてそんなにドルガンさんをいじめるんですか? 若いからって。可哀相ですよ、本当はとっても立派な方なのに」

一瞬の静寂の後、今日最大の笑い声が起こる。
「こりゃいい」だの「なんとめでたい」だの、てんでに勝手なことを言ってはしゃいでいる面々を前にステラが呆れて立ち尽くしていると、小さくなって座っているドルガンと目が合った。
ドルガンはちょっと肩を竦めて、気弱そうに苦笑した。

『すまない』

あなたは全然悪くありません。
そう言ってあげる代わりに、ステラも肩を竦めて苦笑してみせた。




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