どちらから先に見つめていたのだろう。

思い出そうと少し考えてみても、無駄だった。
どれだけの間こうしていたかもよくわからない。
五分ほどかと思い、けれど同時に全ては一瞬のことなのではないか、とも思う。
枕代わりにと丸めた着替えを通して、生々しく伝わってくるゴツゴツした地面の冷たい感触。横たえた頭は何故だかぼんやり煙ったようで、少しも満足に働こうとしない。漠然とした疑問しか浮かばないのは、そのせいなのだろうか。

こちらを向いた、ふたつの瞳。
遠いわけではない。が、傍というほど近くもない。
色彩も判別できない薄闇の中で、その瞳の縁だけが濡れたように細く煌いている。

それは、多分、自分も全く同じことで。

レナ。名前を呼びたい衝動も、見つめた瞳の奥に静かに解けて霧散した。
自分は、彼女は、均衡を破りたくないのだ、と。頭でも心でもないどこかで理解している。

見つめ合う視線は動かさないまま、バッツは口元まで引き上げていた毛布をそっとそっと引き下げた。唇が、冷えた空気に触れる。今は何時だろう。夜明け前なのは確かだが――見張り役は、今は、ファリスなのか。朝までにもう一度、自分に回ってくるのだろうか。
布の隙間から忍び込む仄かな明かりの中に、もやとなって立ち上る呼気がうっすらと見えた。それが彼女の唇を通ったものなのか、他の者が発したものなのか、そんなこともわからない。

夜明け前の空気は、口腔に流れ込んでもなお凍るほど澄んでいて、それが身体を巡り始める感覚は、自分の全身が別の何か――そう、まるで冷水の流れる水路になったような錯覚を起こさせる。だからどう、というわけでもないのだが。

 

時が止まったような、この瞬間。
見交わす瞳は――

 

 

 


目を閉じておいでよ:


 

 

狭いテントの薄闇の中は、未だ穏やかな眠りの時間が支配している。
重く垂れてくるような布の天井の先は、暗くて見えなくなっている。その下に一見バラバラに、けれど寄せ合うように敷かれた数枚の毛布。幾つかのふくらみが上下して、誰かが頭まで中にくるまっていることがわかる。

そんな中で。

見つめる瞳は、少しも動いていない。自分も同じく、動かしていない。
淡い意思と軽い驚きと微かな問いかけの綯い交ぜになった、その結果の無表情。
それを変えることさえない。
どちらかが瞳さえ閉じれば全て終わると、わかっているのに。
何故か自分から閉じることはできない。何もできない。
なんとなく囚われている様な――それともこれは、逆に捕らえているのか。どちらにせよ、悪い気分ではないというのが困る点だった。悪いどころか、いっそ手足全てを預けてしまいたいほど心地良いような気もするから始末が悪い。

まぁ、どちらでもいいのだけれど――

思考が浮かんでは消えていく。
それしか見えない瞳に吸い込まれていくように、一瞬後には何もわからなくなる。
瞳と瞳。
絡み合うひとつの対。互いを呑み合う暗い鏡。

彼女には、こちらが見えていないのだろうか。
こちらが目覚めていることに気付いていないのだろうか。
それとも未だ半分夢心地でぼんやりしているだけなのか。
あるいは、向こうもそう疑問に思いながら、何かを待っているのだろうか。

目覚めていないのは自分なのか。これこそが夢なのか。

(わかってる――)

息苦しくも心地良い鞘のように、生ぬるい空気がふたりの上に覆いかぶさっている。
ああ、――と思う。
ぼんやりとした頭、それでも、

(……わかってるよ)

夜露で湿って重い毛布はそれぞれ同じ色、同じもの。
けれどその下に隠された体はそれぞれ少しも似ていない。
手の大きさや形だって全然違う。向き合ったまま時を失ったような顔も。地面にやわらかく広がる髪の長さも質も。こんなに息遣いを感じるほど近くにいても、鏡のように互いの瞳を写しあっていても。同じものになることはできない。

けれど今。見つめる彼女と見つめる自分、ふたりは多分、同じような顔をしている。
少なくとも兄妹にみえるほどには似ているのではないか、と思う。

(……ほんとうに?)

不意に毛布から滑り出る、自分の手の意味――ああ自分は彼女に触れたいのだと、一瞬遅れて理解する。
空気を揺らすことさえ恐れてゆっくり伸ばした手は、意外にあっさり相手の頬に触れた。
触れる無礼を確認するように指先で撫ぜ、それからそっと掌を乗せる。冷えきった滑らかな頬に、自分の体温がじわじわと移っていくのがわかる。彼女の表情は少しも動かない。
軽く見張った目は何かを問うように、それとも告げるように?

なんでもいい。

彼女の滑らかな白い貌。それを飾るように取り巻く髪。どちらも見えない霜をまとっているように冷たいそれに手を当てて、静かに静かに、あたためるように動かしていく。つややかな唇に触れたとき、自分の指先が震えていることに初めてバッツは気付いた。

瞳さえ、閉じてくれたら。
けれど瞳を閉じなければ、均衡さえ崩さなければ。
もう少しだけ長くこのまま――

ばさっ。

唐突な音にぎょっとして振り仰いだ視界に飛び込んだのは、めくれ上がったテントの出入り口、そこから急に差し込む蒼い光の中、ふわふわと踊りながら、今にも滑り出ていく金の髪――

――ばさり。

すぐに布が元通りに下りてきて出入り口をふさぎ、闇が戻ってくる。
何も見えない。不意の出来事に乱れた胸を押さえて少し待っていると、案外すぐに視覚は戻ってきた。瞳が見えた。あの、瞳。
けれどわかってもいた。一度逸らしてしまった視線は、もう元のようには戻らない。
寝転がったままぽかんとした顔を見合わせ、それからどちらともなく、ふっと――ようやく、表情を崩した。

「……おはよう」

「おはよう」

くすくすと、密やかな笑い声が狭い空間に満ちていく。

 

均衡は、崩れた。

 

「……クルルのやつ、告げ口に行ったな」

「そうなの? でも」

ん、とくぐもった短い声。不意打ちを理解する間もなく、ぱちぱちと瞬くばかりの瞳。
静かになったテントの外から、高い声が聞こえてくる。嬉々として弾む声は何を語っているものやら。内容までは聞き取れないが、止めるなら急いだ方がいいには違いない。
そうは思ったけれども――

ようやく唇を離し、頬を包んでいた両手を離すと、バッツはちらりと歯を見せた。

「じゃ、怒られてくるかな」

少し赤くなったレナの顔から目をそらす。返事も待たずに毛布を退けて立ち上がり、テントから堂々と歩み出た。あ、と前方から声がする。あの、と後ろからも遠慮がちに自分を呼ぶ声がする。
何故か、少し余裕を見せたくなって――あるいは時間を稼ぎたくて、その場で大きく伸びをしてみた。肺に流れ込むのは澄んだ空気、仰いだ空は夜の終わりと朝の始まりが溶け合った不思議な色を見せている。
くちびるに残った、優しい感触。それをちょっと一撫でして。
思わず口元を崩すと、怒声が飛んで来た。

「おいバッツ! 今クルルに聞いたんだけど、お前――」

なんでも、どんどん、飛んでくればいい。今この瞬間だけは、怖いものなんてどこにもない。

ああ。だって、世界はこんなにも美しい。

笑って歩いて食べて疲れて見詰め合って。
泣いて飲んで眠って遊んで歌って夢見て。
愛し合って。

 

そしてまた、いつもの朝が始まる。


(06/07/02)

<あとがきらしき>

隠しテーマはスローモーション。
だったのですが、蓋を開けてみればラブなんだか何なんだかよくわからない感じで申し訳なく…
タイトルを見てピンと来る方もいるかわかりませんが、バツレナ祭のお題参加用に書き始めたものの締め切りに間に合わず⇒そのまま忘れて放置…
という、可哀相な状況からふっと思い立ってサルベージしてみた というパターンです。

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