翳りゆく部屋:


 

  ねぇ、と呼んだら、聞いてくれますか。

  わたしは、少し、くるしいみたい。
  あなたを思うと、くるしいみたい。

 

薄暗いというほどではない。明るいというわけでもない。
翳っている、とでも言えば良いのだろうか。
一面を唐草模様が這う白タイルに覆われたその浴室は半分が一段低くなって水を湛え、浴槽の役目を果たす。明り取りは、天井近くに曇り硝子の小さな窓が一つだけ。風景は通さず、淡く弱めた光を通し――そして同時にゆるやかな陰影をこの空間に作りだす。例えば、壁の装飾の影に。例えば、波の陰に。
その空間では、水はほんのり青みがかって見えた。あるいはこれが陰そのものの色なのかもしれない。微かな身動きに生じる小さな波頭だけが、光を充分集めて眩い。光が水を染めるのならば、影がそうできないとも言い切れないだろう。

ゆっくり持ち上げる指先に、一瞬の重み。それを押しあげるように水面から、つめたい外へ。すべり出る。
指の先からむき出しの肘へ、手首を伝って細く流れるその感触。

やがて、ぽた――と。

広がる波紋へ、ひとつふたつと垂れ落ちて、新たな紋を小さく加える。
微かな水音が天井に高く響いて、無音の室に瞬間、満ちる。
そしてまた静寂。

水――みず。
透明な光を放って落ちる、奇跡のようなその雫。
どこまでも混ざり気のない、何ものも隠すことの出来ない、何の色も持たない、水。
レナは濡れた手首から目を離し、ゆるゆると腕を水に戻した。

(だけど、――わたしは)

少しぬるい水に、肩まで沈みこむ。水は何の抵抗もなく、肌を呑んでいく。
目を閉じると、水は確かに自分の身体を取り巻いている。微かに揺れている。
澄んだ硬い水音がどこかで小さく響いた。目を閉じたまま仰向き、身体の力を抜
く。見えない手が背に触れ、それに押されて、ふわりと浮き上がるこの身体。
ゆるく投げ出したような四肢が波のすぐ下に、髪が水中に広がって揺れる。

たぶん、世界で最も純粋で綺麗なもの。
その中に浸した自分の身体が酷く間違ったものに思えて、けれど他にどうすることも思いつかず、微かな居心地の悪さを抱えたまま、怠惰な気持ちと身体をただ淡い蒼に遊ばせている。

(わたし――こんな綺麗なものにはなれない…から)

見えないほどの弱い波は、とろとろと子守唄の心地良さ。
軽く締め付ける圧迫感は、弱く抱かれるような心地良さ。
意志が、手足の先から溶けていく。染み出ているのか侵食されているのか、その曖昧な感覚もまた心地良くて。

 

  ねぇ。

  わたしは、少し、くるしいみたい。
  あんまり好きで、くるしいみたい。

 

濡れた瞼をそっと開く。いつもより少しだけ遠く見える天井に反射して、けぶるような水紋がゆらめいているのが見える。
――どうして最初は平気だったのだろう、と思うことがある。
わたしは、多分、あの時から。もうずっと長いこと好きだったのに。それだけで良かったのに。
今はとても怖い。少し触れたり、ふっと言葉が途切れたり。笑い合ったり。何気なく目を合わせたり、逸らせたり。その全てが。
どうして、いつからそうなったのだろう。
きっと、どこかで越えて変わってしまった。でも、何を、いつ、どこで?

 

ぴちょん――跳ねる水音。
目を閉じて、その残響に耳を澄まして。

 

  あなたを好きでいることが怖い。
  あなたを好きで仕方ないわたしが怖くて嫌い。
  なんて酷いことを考えるの。なんて浅ましい想像をするの。
  なんて惨い夢を見るの。

  なんて、哀しい、望み、なの。

 

薄く開いた唇を、微かな息が通う。
あなたを想う時間はとても静かだけれど胸のうちはとても熱くて、自分でも手の付けられない熱に、時々窒息してしまいそう。
――だから、わたしには水が必要。
あなたを想うことは本当に苦しくて、泣き叫んで流してしまいたい。けれどわたしは水ではないから。

 

声も仕草もどんな表情も。あなたの全てがわたしを責め立てる。

優しい水に抱かれて、心地良い水に眠って。
いっそこのまま。

消えて、しまえたら。

(06/02/13)

<あとがきらしき>

06年2〜3月に開催されたバツレナ祭5th参加用の小説?というかポエム?というか…
恋のステップ☆2段目あたりにいるレナ。なお話。
キレーな感じを目指したかったのに、今読み直してみると何故入浴シーンにしたのか謎。
そしていつものことながら、 …く、暗い…? ;;

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