: 焔の目、翡翠の目





「まあ、そんな顔をするな。これでも随分落ち着いたのだから」


上体を枕で支えながら笑ったその相手の顔は、病み衰えているとはいえ、まだ充分に若く、美しかった。短く切りそろえられた嵐翠の髪は艶やかなままだし、<西片の魔女>と人々に渾名させしめる、力強い瞳も健在だ。柔らかな日差しを斜めに受けながら、それでいてこんな平穏には呑まれない気迫がにじんで見える。
<ミスリルの女帝>、<焔の妖女>、<鋼鉄の淑女>――いくつもある渾名は全て彼女を正しく表し、同時に、彼女は全てを体現し続ける。カルナック女王、エイディス。
その身はいついかなる時も王者の風格を纏い続ける。

そんな相手と広い部屋、二人きりで向き合えば、気後れを覚えるのも当然かもしれない。そう考えても、少しも慰めにはならなかったが。
二人きりで話したいと言いだしたのは女王だった。部屋の外に衛兵が控えているとはいえ、身辺に従う侍女も侍医さえも追い出して、一体何を考えているのだろう。

そういえば、とふと思う。
自分との年齢差はいくつだったか――たしか15も離れていないのではなかったか――無意識に計算しようとしている自分に気付き、レナは慌ててそれを却下した。レナが受けてきた教育では目上相手の年齢を誰何するのは何よりの失礼に当たる事だし、それよりも相手は即位して20年を数える先輩国主なのだ。礼に礼を重ねるならともかく、非礼を重ねてどうする。

「……お加減は、いかがですか」

女王はクスリと笑い、つっと背筋を伸ばしたようだった。その唇から溢れる声が、一瞬で変質する。

「…心配は不要です。侍医共の見立てでは、難所はどうやら越えた様子。これでじき政務にも戻れようというものです」

突然、威厳が気品に取って変わった。うっすら微笑む女王を、レナは驚嘆の思いで見上げる。

(この人は――いくつ仮面を持っているの?)

「……それを聞いて、安心致しました」

気後れを隠して、なんとか微笑む。
女王の声はよどみなく落ち着いて、対する自分の声はいらだたしいほど物慣れない、幼稚なものに聞こえてならない。まるで苦手な親戚にムリヤリ引き合わされ、おっかなびっくり挨拶を搾り出す子どものようだ。あるいは一流女優と同じ舞台に載せられ、まごつく素人か。
焔色の双眸が、値踏みするようにこちらを見ている。不意に、むき出しになった自分の肩や項、大きく開いた胸元をレナは痛切に意識した。何故、若い者は若いというだけでこういう格好をしなくてはならないのだろう――
どうにも落ち着かない思いで、レナはちらりと廊下側の壁に目をやった。女王の寝室の壁――その向こう側に、タイクーンから一緒に来てくれた護衛が控えてくれているはずだった。

(……頑張らなくちゃ)

「タイクーンにお力になれることがございましたら、何なりとお申し付けください。同盟国として、カルナックへの援助は惜しみません」

「ええ。頼りにさせていただきます」

血色の失せた女王の顔に、そこだけ色付いた唇が優美な笑みを描いた。

「…我が国政復帰の折には当分そなたらの助力を当てにさせていただくこととなるゆえ……よろしく頼むぞ」

「……はい」

(……敵わない)

レナは内心、密かにため息をついた。
永く国の支えとしてきたクリスタルを失い、城という国政の場まで失ったカルナックは現在、独力で立ち上がる新しい方法を懸命に探している。そんな王国に援助を与える多くの国の中でも、タイクーンは最も強力な支援者としてその援助を惜しまない。
カルナックにとって、タイクーンは目下最大の恩人であるといっても過言ではない――はずなのだ。
それが。

(誰にも、そうは見えないでしょうね……この場を見たら)

見舞いに来た者が、見舞われた者に呑まれている。ここから読み取れる上下関係は、どういうものか。想像はつくが、あまり考えたくなかった。政治において肝心なのは事実ではなく、実際なのだ、とするとこの場の結果はつまり、自分の力不足に直結する。
ただ一つ分かること――この機を以ってカルナックに対する優越を確保しておきたいという、一部重臣たちが持っていたであろう下心は、おそらく叶わない。誇り高い女王は決してその誇りを売ったりはしない。<恩人>相手でも決して媚びず、威厳を保つために細心の注意を払い――そして、まるで当然の如く成功しつつある。これまで父王の権威と庇護の下に甘え、政治的な経験を自ら積むことなくやってきた小娘相手なら、この女王にはさぞや簡単なことだろう。

(せめて、姉さんがいてくれたら)

傍にいてくれるだけで、どれだけ心強いだろう。それだけではない。
姉は王族としての基本的なたしなみや暗黙事項などを学んでいる途上ゆえに外交は未だ禁じられているが、少なくとも「交渉」というものを知っている。それが必要な場所で育ったから。それが実際に命のかかった荒っぽい駆け引きであれ、あるいは言葉による駆け引きであれ、およそ駆け引きという演目に関して姉に勝る者を身近では見たことがない。
――いや、一人だけ、いた。今はもういないけれど。

(……お父様)

あの人なら、どう振舞っただろう?
もっと豪放に、もっと快活に、もっと繊細に?
いくら思い描いても想像に過ぎない、何よりどれも今の自分にはできそうもない。
あの頃、もっと学んでおけば良かったのに、どうしてそうしなかったのか――つくづく、自分の暢気さが嫌になる。
どうしたらいいのだろう。簡単な嘘でもすぐに見破られてしまうというのに、立派な国主――その片割れを演じるだけの技量はまだ自分にはない。
そう。女王というものは、確かに女優には違いない。いや、何も女王だけではない。
公に顔を出すものは、誰もが演技者でなくてはならない。なのに自分にはまだそれが出来ていない、という強烈な自覚がある。経験の差は、志や気合だけで好きに埋められるものではない。学ばなくてはならない。長い年月をかけて。

「――ところで、姉君はお元気かな」

女王の声に、レナは瞬いた。心を読まれたのかと、一瞬本気で考えかける。
こちらを見つめる女王は、身分こそ貴い女王ではあるものの人間であることに変わりは無いし、もちろんそんなはずはないのだが。

「あ、……その、姉は」

「まだ外交は許可されない……か。そちらの周囲も、頭の固い連中ばかりか」

「そんなことは」

女王が笑う。ふとんに置いたしなやかな両手を組んで、目をすうと細めた。
そういえば、とレナはまた唐突に思う。
細身の柔らかな肢体といい、鋭い煌きを持つ瞳といい、この人はどことなく猫に似ている。美しい上品な毛並みの奥に、荒々しい野生を強烈に秘めたままの、気まぐれな猫。ここにいる自分は、ならばさしずめ、狩られるばかりのネズミだろうか。
ちらり、ともう一度壁を見る。息を吐く。

(頑張らなくちゃ……)

「残念だな。会えるのを楽しみにしているのだよ。話に聞く限りでは、女の身ながら男に劣らぬ武勇の人、その気性は烈火の如く……とか」

「……はぁ」

どう答えればいいのか、気の抜けた声を出すレナに、女王はクスクスと笑いかけた。

「剣にも通じ、また性の別を問わず人気があるとも聞く。――私と気が合うのではないかと思ってね……」

女王の双眸は、レナの姿を捉え続けて離さない。
レナは目を逸らさないよう全力で自分に命じながら、こっそり唾を飲んだ。
――もしかすると、この人には姉でも敵わないかもしれない。
そんなこと、信じたくもないけれど。

「どうかな、私と姉君は似ていないか?」

「……どうでしょうか」

考えるために俯く。姉と、この女王。似ているだろうか?
例えば、気性が激しいところは少し似ているかもしれない。けれど自分は、姉に対してこんなに恐ろしいような思いを抱くことはない。それは姉が自分の姉だからだろうか、それとも姉自身が優しいからか、それとも――
不意に肩を触れられる。驚いて顔を上げると、すぐ目の前に女王の長身があった。細く、笑っている。
女王の手がするすると動いて、肩を抱く。レナはびくりとそれを見下ろし、慌てて女王の白い顔を仰いだ。

「あの、エイディ……」

「歩くぐらい大丈夫。本音を言えば、もう寝飽きている」

――そういうことじゃない。
思ったが、言えるような状況でもない。間近で見下ろされて、思わず目を逸らす。壁を見つめる。

「レナ姫、正直に言ってくれて構わないのだよ」

寝間着のままの女王が、クスリと笑う。

「この国にはまともな相手がいない……私と正面から戦い、火花を散らすことのできる敵となり得る相手が。敵が。皆私の言いなり、私の思うまま。例え私が咎もなく死を命じようと、歯向かう気概のある者もない。嘆かわしいことだ。そうだろう…?」

レナは緊張したまま、わけもわからず頷いた。今の女王は猫どころではない。むしろ――そう、蛇だ。
身体を縛る大蛇に顔を覗かれるのに似ている。いつ毒牙を突き立てられるのか、それとも縊られるのかわからない。
心を読んだように、女王が愉快そうに笑んだ。

「……かと言って国外も同じだ。平和ボケのウォルスは言うに及ばず、何やら他の世界から来たとかいう新たな国々は、揃って国主不在の有様。唯一気骨のあったアレクは――ああ、お悔やみを言うのがまだだったな――この世にない。敵がいない。この孤独がわかるか? わからないだろう、可愛らしい王女殿には」

レナは息を呑んだ。整え切れなかった後れ毛を、女王の冷たい手がさらりと撫でていく。
女王が耳元に唇を寄せて、擦れた声で低く囁いてくる――

「……私は戦いたい。私は血を流したい。他人の血を浴びたい。私は真実、破壊が好きだ。好敵手が欲しいのだよ――」

唐突に突き放されると、くらくらと眩暈がした。思わず額に手を当てる。
女王はすたすたと寝台へ戻り、元の位置へ落ち着いた。

「――わかっただろう。これが、私の闇だ」

レナは思わず顔を上げた。
女王は何事もなかったかのように指を組んでこちらを見据え、微笑んでいる。

「クリスタルを巻き込み城を巻き込み民を巻き込んだ、その全ての責は私にある。この、私の残忍さが闇を生んだ――」

「それは……あなたは、操られて」

「慰めはいらぬ」

女王が笑う。いっそ快活なほど。

「何者かに操られていた? 確かに形はそうかもしれぬ。が、わかっている……わかっていたのだ」

レナは黙って女王の顔を見つめた。

「…あの朝目覚めると、無性に力が欲しかった。兵を鍛え、国を富ませねば、と強く思った。カルナックを世界一の強国にせねば、とそればかり思うようになった。……白状すれば、戦がしたかった。過去、我がカルナックが――偉大な王だった父が、タイクーンを打ち負かした時のような、壮大な戦を。けれど、それには火種がいる」

そこで女王は、何故か微笑した。

「…タイクーンに、当時のような戦狂いの愚王はもういない。王朝ごと代変わりしていまったからな。裏でこそこそするばかりのウォルスは論外だ。我らには――私には、大義がない。そもそもどの国にもまともな兵力がないだろう。平和な時が長かったために。…だから、まずはそこから行こうと思った」

女王の目が、ふと遠くを見る。

「そこで、クリスタルだ。兵を鍛えるように、クリスタルも酷使すれば力を増すのではないかと、何故かそう思った。それは確かに、何者かによって与えられた閃きではあったのかもしれぬ。けれど、わかっていたのだよ。あの時、己が道を外れていくことも――それが、実は破壊を求める己の本心からの行動であったということも。実に気持ち良かったよ、己の欲望のまま生きるのは」

「……エイディス様」

「その節は、迷惑をかけた。そなたたちにも……我が臣や、民にも。それに、あの――」

レナは目を逸らさず瞬いた。こちらを向いた女王の眼差しが、ふとやわらかくなったのは――気のせいだろうか。

「――馬鹿な男を一人、お前は覚えてはいないだろうな。我らが王国に安置されし火のクリスタルにトドメを刺したは奴よ。あれにも気の毒なことをした。優秀な兵だと思っていたのだが…」

「兵……」

――そういえば、と思い出す。
燃え盛るカルナックの城。地下深くに隠されていた、火のクリスタル――その力を引きずり出し、破滅へと向かわせる機械。すっかり止めたと思ったそれを、再び動かした、誰か。
飛び散る力の結晶。焼け落ちる城を間一髪逃げ出して、そこへ襲い掛かってきた人間――兵。
嗤う<それ>。兵士の姿が歪んで、伸びて、異形の姿に――

「お前は信じないだろうが、私があれに何かを命じたわけではない。話したこともないのだよ。……いや、或いは一度か二度、何かの折に公衆で振る舞いを褒めてやったこともあったかもしれん。民間の出とはいえ剣技は見事だったし、恐ろしく真面目で一本気な男だった。そこは私も買っていた」

女王はふと、こちらを見て苦笑した。

「……そうだな、認めよう。目をかけてやってはいた。頼りになる部下だ、と将来を期待してもいた。あのまま研鑽を積み続ければ、十年以内に副将ぐらいにはなれただろう……しかし何を勘違いしたのやら。それで己を魔性にまで昇華してしまうのだから、思い込みと言うのは恐ろしいものだな。私が女王でさえなくなれば奴の妻になる、とでも思ったのか……まぁ、今となっては分からぬ。案外、単に王位を狙っていただけなのかもしれぬしな。男の考えなどはわからぬよ。女王でない生き方など私が望まないことを、あれが最後まで理解しなかったように。奴の闇とはなんだったのか……結局、わからぬのだよ、私には何一つ」

女王が、ふと笑みを消した。遠くを彷徨っていた視線が戻ってくる。
目が合う。視線が絡み合う。

「…思うのだよ。闇とは何なのだ? 闇を持つことは、それほどの罪なのか? 闇は確かに犠牲を生むが、あれは力に…希望にもなると、そう思わないか。光と闇の区分はどこにあるのだ…?」

何もない掌を見つめて喋る女王を、レナはじっと見つめ続けた。

「…わかりません」

「愚かな私は言うに及ばず、あれほど賢王と称えられたそなたの父王でさえ、その胸に闇を抱く。彼の人の闇とは何だったのだ? 皆が抱く闇はどんなものなのだ? そもそも、何故そんな物が生まれるのだ…」

「わかりません」

女王は顔を上げ、小さく笑った。失笑したのかもしれない。

「正直な娘は好きだ。…が、そなたに闇はわからないか。残念だ」

「わかります」

女王が軽く目を見張るのが見える。

「……では、そなたの闇とはなんだ」

女王の顔から笑いが消えても、何故か少しの気後れも感じなかった。
――いいや、理由なら分かる。女王は、この哀れな人間は、同類なのだ。
他の誰に言えなくても、例え大好きな姉にも言えなくても、この同類にならば言える。
だから。
真っ直ぐに顔を上げて、告げる。

「愛する人の命をこの手で絶ちたいと……願いました」

「……――」

覚えている。
振り向いてくれないなら、手に入らないのなら、誰かのものになるぐらいなら――どうか。
せめて、どうかこの手で。
祈るように――嗤いながら。

「…今なら分かります。いけないことだけど命じられたから仕方ない、命じられたからにはそれに従うだけ――と自分に言い聞かせながら、本当は自分自身の欲望に従っていただけなのです。…気持ち良いものですね、自分に正直に振舞うということは。あんなに想いに酔うことなど、この先二度とないでしょう」

覚えている。忘れない。それは、忘れてはいけないことだから――
そんなにも深い闇が、己の内にあるということを。引き受けて、生きていく。できることといえば、その程度なのだけれども。

女王はしばらく無言だったが、やがて、そうか――と呟いて顔を上げた。
すぐに、笑った。

「なるほど、私は見誤っていたらしい……可憐な見た目に騙されてはいけないということか。これではいつ噛み付かれるか分かったものではないな」

「恐れ入ります」

顔を見合わせて、ふっと互いに息を吐く。クスクス、と忍び笑いが寝室に満ちる。

「…そなたは、ひょっとすると私に似ているかもしれぬ」

しばらく笑った後で、エイディスが言った。控えめに笑いながら、

「そうかもしれませんね」

答えると、エイディスは意外そうに眉を掲げ、それからまた笑った。





「姉君によろしく伝えてくれ」

わざわざ御自ら廊下まで見送りに出向いた女王は、こっそりレナの耳に囁いた。

「そなたでこれなら、姉君にも期待できようというものだ。またいつでも来ておくれ。何より、女王仲間が増えるのは歓迎だし」

「お伝えします」

にこやかに答えるレナに、女王の目が細くなる。

「…そういえば、さっきの質問への答えがまだだったな。姉君は、私に似ておられるか?」

「そうですね……」

答えを返しながら、レナの視線は廊下を動いた。寝室の戸口のすぐ外に、大柄の衛兵が二人。その向こうの廊下で落ちつかなげに、何やらハラハラした様子こちらを見守っている女王付きの侍女や侍医たち。部屋を追い出されてからずっとあそこで控えていたのだろうか。
その向こう、大きな花瓶の乗った台の足元に――
目的の姿を見つけて、レナはパッと微笑んだ。

「…姉は、どちらかというと父に似ていると思います」

「まさか、見た目が? それとも気性がか?」

「内面が」

「ならば、よき喧嘩相手となろう。嬉しいことだ」

「はい」

機嫌良く笑う女王に暇を告げて、レナは廊下を歩き出した。反対から駆けてくる侍女たちの集団とすれ違いざま、堪えきれずに早歩きになる。しまいにドレスの裾を持ち上げて軽く駆け出す。向こうで、ずっと片膝をついて控えていた彼が立ち上がるのが見えた。真新しい上着の中心には見慣れたタイクーンの飛竜紋。白い手袋に白いマント、羽根の飾られたつばの広い帽子。腰には、それだけ使い込まれた剣。それらタイクーン近衛隊の隊服を身にまとって、にっこり笑って両手を広げる彼は――

駆けて駆けて、勢い余って飛びついて抱きついて、それからようやくレナは顔を上げた。
帽子から溢れる尖った前髪は濃い茶。その前髪から覗く、青い双眸。

「お疲れさま。なんともないか?」

その、声。

「うん、ありがとう。……バッツこそ、大丈夫だった?」

「そりゃあもう」

バッツは満足げに笑った。

「みんな俺が本物の近衛隊員だって、信じて疑ってないみたいなんだ。どう見たって服も帽子も大きさバラバラの新品、借り物としか見えないだろうに」

くすくすと笑い合い、ぎゅっと抱き合う。

「……本当のこと言うとわたし、ちょっと怖かった。エイディス女王様とお父様なしで、二人だけでお話するの初めてだったし、怖い人だと思ってし、実際とんでもない方で……でも、外でバッツが待ってくれてるから、なんとか頑張れたの」

そっか、と笑う声があたたかい。

「…うん、じゃあ俺も本当のことを言おうかな。実は待ってる間に女官の人が勧めてくれたクッキーをさ、ありがたくバリバリ食っちゃって。あれって礼儀としての形式だけのもので、本当は出されても手をつけないのがルールだなんて知らなかったからさ。三日三晩モノ食ってないからって言い訳しておいたけど、あれは相当疑ってたな、絶対」

「ええっ、そうなの?」

「あ、あのぉ……」

聞き慣れない声に笑いを止め、きょとんと二人で見たそこには、困った顔の女官が一人立っていた。何やら封筒を差し出している。
意味が分からずに顔を見合わせ――それから気付いて、慌てて身体を離すと、女官は申し訳なさそうに目を逸らしながら、弱々しく呟いた。

「エイディス女王陛下から……あの、タイクーンのレナ王女に、と」

「わ、わたし?」

どうやら封はされていない封筒を受け取り、中から便箋を引き出す。つい今書かれたばかりなのだろう、鮮やかな筆跡からはインクの匂いが立ち上った。肩口から覗き込んでくるバッツと一緒に、書面を追う。

『――そうそう、尋ねるのを忘れていた。
廊下に控えている彼には今晩、普通の客室を与えるべきか。
それとも貴賓用の客室を与えるべきか。
…ああ。それとも、レナ姫と同室で構わないのかな。
うむ、まあ若い二人だしな。どうもそれがよさそうだ。
何、礼など言うことはない。
身分の違いは大変だろう。
周囲の理解が得られず、日々苦労しているのではないか。
風の勇者殿とレナ姫に関する噂には、私もいたく興味がある。
困ったことがあったら相談して欲しい。
そして是非、道を貫き通してくれ。
私としてはただそれだけだ。健闘を祈る。

カルナック女王 エイディス』


「…………」

「あの、これは……」

恐る恐る顔を上げた二人に、女官は力なく首を振った。

「…あの方は、この手の話に目がないのです。その割にご自分のことには興味なく、いつまでも独り身のままで」

「はぁ……」

「申し訳ありません。どう致しますか? その…こちらの方の……」

女官がちらちらと窺うようにバッツを見上げている。
なんだかんだ言って、彼女も「噂」とやらが気になる一人なのかもしれない。
レナはため息をついた。一体、どんな「噂」が伝わっているのだろう。

「もちろん、別室でお願いします。せっかくのご好意を無にして申し訳ありませんけれども」

「ええっ」

何故か残念そうな声を上げるバッツは無視して、レナは頭を下げた。

「エイディス様に、お心遣い痛み入りますとお伝えください」

女官はほっとしたような、残念なような、複雑な笑みを見せた。

「承りました。…そうですよね。そんなわけないですよね。いくら一流工房のものとはいえ、あんなカビの生えたような古いクッキーをおいしそうに大量に頬張れるような方が、王女様のお相手なわけないですよね」

「ええっ」

何故か怯えた声を上げるバッツを無視して、女官が頭を下げる。

「レナ姫様、ご不快にしてしまったならすみません。あの方は、昔からちょっと暴走しがちなところがあって…」

「いや、あのさ、むしろ俺は…」

「いいえ、不快なんてとんでもないです。女王自らご好意をお寄せいただいたことをありがたく思いますわ」

「俺は……おーい…」

「それでは」

恐縮しつつ女王の寝室へと駆け去る女官を見送って、レナはほっと息を吐いた。同じく隣で息を吐くバッツを見上げ、頭を振る。

「……ほらね、とんでもない方でしょう」

「そう…だな…」

ぼおっと、何か自分とは違う感慨に耽っているらしいバッツはとりあえず置いておいて、レナは手に残った便箋を見下ろした。
自らの達筆をふるって女王として署名まで入れ、末尾に国璽まで押してあるこれは、一体何なのだろう。
冗談なのか、からかわれたのか、それとも――

(本気? …まさかね)

笑いながらも、なんとなく拭いきれない予感を残しつつ。
けれど、とりあえず分かることは――

「レナ」

「あ、バッツ、なに……んッ」

振り仰いだ唇を塞がれて、思わず便箋を取り落とす。息ができないのは数秒で、すぐに自由になった。思わずきつく閉ざしていた瞼を開けると、レナはぼうっとバッツの顔を見上げる。

「何……」

彼は、にっこり笑って口を開いた。

「好きだよ」

「あ…はい。…うん」

頬が熱い。不意打ちに怒ることも思いつかずに頷きながら、取り落とした便箋を拾うためにしゃがみこむ。
その途端ぱたぱたと遠ざかる足音が聞こえて、レナは顔を上げた。先ほど目にした女官のローブの裾が、素早く角に消えるのが見えた気がした。
今すぐ追いかけて、口止め――する気力もない。

(こういうところから、『噂』が広まるのかしら……)

拾い上げた便箋の表面に意味もなく再び目を走らせ、レナはため息交じりにそれを畳んだ。
――とりあえず分かること、それは。

「わたし、あの人に追いつける日なんて来るのかしら……」

「……あの人って?」

「さあ、誰でしょう」

何故か疑わしげに聞いてくるバッツに適当な答えを返しながら、レナは長い廊下を歩き出した。
課題は多く、先行きは長い――ともあれ、時間だけはたっぷりあるということだ。
まずは髪をほどいて服を着替えて、大事な人とお茶でも飲んで。それから考えてみよう。
それぐらいの贅沢は許されるだろう――

「――あ。そうだわ、忘れてた」

振り向くと、すぐ後ろについてきているバッツの表情が目に入った。何かしきりに考え込んでいるらしい顔の側面に回りこんで、その頬に軽く唇で触れる。
弾かれたように、空色の瞳が見開かれる。その視線を避けるように、一歩下がって。

「わたし、わたしだって……その、好きだから」

それだけ言うと、全速力で駆け出す。
少し間を空けてから追いかけてきた声は、どうやら笑っているようだった。


051121


・あとがきらしき・

誰か私に政治経済の知識をください。完。

…あ、嘘です。
「政治家同士のバシバシ交わされるかっこいいオトナ会話」というものをやりたかったのですが、イメージするだけならともかく、実際に書くのはなんかもう無理無理でした。ああいうのが書ける人っていいですねー。心底尊敬。

そして久しぶりにバッツ登場〜の一話。出番、短いですが(酷
イチャイチャ度が上がったような、そうでもないような。いやでもバツレナはやっぱりいいですね!書くのは相変わらず恥ずかしいんですけどウフフ。

…あ、カルナック女王の名前は捏造ですよー。バレバレだと思いますが、とりあえず念の為。
「怖そうな女王サマ」といえば「ジェイディス」と強烈に刷り込まれているのですが、来年頭の映画化であからさまにバレそうなんでちょっとだけヒネリました(ヒント→児童文学)。

というか、女王については性格から何から捏造しまくりで、もはや別人疑惑が…!
遠い昔、攻略本?かどこかで「気性の激しい女性」という一文を見た瞬間に米姫の中に出来上がった像がこれです。ゲームだともうちょっとしおらしいことを言っていたような…?うーん。でも世紀の天才・シドをわざわざ召抱えて科学を取り入れようとしてたり、火力船なんか作って軍事力を蓄えてたりする国を一人で切り盛りしてる君主ですから。あの女王様、ただ者じゃないと思いますよ。心の奥底ではとんでもないスケールの野心がきっと展開されていたんだ!(言い切ってみた)
それにしても…やたら男前でごめんなさい。匙加減がムズカシすぎました(苦笑)結局いろいろと自分で耐えられなくなって変な人にしちゃったしな…ごめん、女王様。

心の闇。
計り知れないスケールの闇を持っている人しか操られない。あの「闇に包まれて」操られる現象を突き詰めて考えると、こういう結論に行き着きました。別名・ザ暴走オブザ妄想。
だって誰にでも無条件で効く技なら、世界中の人を操っちゃえばエクスデスだって楽なんじゃ?
少なくとも自分に直接対抗しうる暁・光の戦士だけでも操っとけばずっと楽だったのに、それをしなかったのは…?とか思うと…色々と湧いてきてしまったのです…。

タイクーン王の闇って?…については考えが一つあるにはあるんで、そのうち書いたり書かなかったりするかもです。

…ああ、あとがきが長くなってしまった…。

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