: One willow & One pillow







霧雨がやわらかに降っている。

湿った黒土の道を踏みしめるたびに鼻を突く土の匂い、草の匂い。
湿気を含んだ袖が、腕に直に張り付いて重い。それを思い切って肘まで捲り上げ。
レナはただひたすら、白く霞む田園の道を急いでいた。
このまま行けば、道の先には村がある。――そのはずだ。

帰らなくては。

でも、どこへ? 決まっている。
人が帰るのは「家」に決まっている、けれど――自分のそれは、どこにあるのだろう。
何故だか、思い出せない。よくわからない。そもそも家ってなんだ?
壁があって屋根があって雨露をしのげて。でもそれは、誰かの宿に借りる一室でも変わらないんじゃないか? 一体、何が違う?
「家」とは結局、一体――ああ、わからない。
わからないが、それはこの際あまり関係ないことではあった。

何故なら。

霧雨の白い中に隠れた草地のどこからか、虫の音が聞こえている。こんな天気だというのに。
蛙が一声鳴いて、草がさやぐ。空がますます暗くなってきた。忌々しい思いでレナは頭に手をやり、僅かに乗った水滴を乱雑に払う。もともとボサボサだった髪が更に乱れてしまうが、構ってはいられない。

帰らなくては。

風が強まってきた。本降りになってしまう前に、帰らなくては。そう思っていたのに。
ちょうど道沿いに生えていた大きな柳の木の根本へ到達した時、レナはふと足を止めた。瞬く。
道の向こうから、誰かが同じように小走りでやって来る。霧雨に濡れて艶やかに輝く髪は桜色。微かな足音が、段々と近付いてくる。
相変わらず随分小柄で、華奢な体つきをしている――と思ったのは、誰だったのだろう。
あっという間に彼女は――レナは、レナの目の前にやってきて同じように止まった。顔を上げる。翡翠の双眸がそこにある。
自分より低い相手を見下ろして観察し、レナはなんとなく咳払いした。

「――えーと……」

その声は、レナ自身が自覚していたより随分と低い。というより、きっぱり別人のものだった。

「俺は、こっち方向に帰ろうと思うんだけど……」

きょとんと自分を見上げるレナを、レナは割合冷静に眺めていた。
自分の呟く言葉自体が、レナの意志を離れて勝手に紡がれるものである。
つまり現在の自分は「レナ」ではないのだ、と、既にそこに思い至っていた。何しろ「レナ」は目の前にいるのだから。

「どうして、お前はあっちなんだ?」

冷静でないのは自分の身体の持ち主の方だった。こくりと無心に頷く向こう側のレナを見て、どうやら心を痛めてもいるらしい。どうやら「器」の宿主であるレナの意志は「器」には通じないのに、どういう理屈か「器」の方の気持ちは伝わってくる。

(でも、なんで……?)

湿った風が吹き付けて、土の匂いが一層濃厚に立ち込めた。
頭上に垂れ下がる柳の葉がさらさらと揺れて涼しげな音を立てる。
早く行かなくては。雨が。
だけど、今別れたら。

永遠に――

いつの間にか、虫たちの声は止んでいる。
不意に霧が濃く湧き出して、辺りをすっぽり覆いだした。ぼうっとしているうちに、すぐ向こうの道が白く隠されてもう見えない。
脇を通り過ぎようとする足音に驚いて、彼は――レナの器になっている彼の身体は、慌てて手を伸ばした。
掴んだ腕を引き寄せて振り向かせて、

「おい、待てよ――」

乱れた髪に必死の形相、相手の双眸に映った顔はまぎれもなく。
相手の唇が微かに動いて、バッツ、と確かに呟いた。

(……何?)

今、チクリと痛んだのは。
名を呼ばれた彼の方なのか、名を呼ぶ役目を取られた自分の方だったのか。

「俺は…――」

ざぁっと降り始める雨の音が全てをかき消し、何もわからなくなる。
風が吹いて、柳が揺れて、土の匂いと水の匂いが――


*


「……あ、起きたぁ」

明るい声を遠くに聞きながら、レナはまた目を閉じた。
田舎道の情景が朧に浮かんでは消える。手を当ててみると、胸が――痛い。

「んもー、レナおねえちゃんったら起きてよー! 起きたらどんな夢を見たか報告し合おうねー、って、寝る前約束したじゃない!」

「……ゆめ?」

改めて目を開き、身体を起こして。部屋はまだ薄暗かった。閉ざされたカーテンの向こうの空は、未だ夜明け前のようで――
レナの視線を追ったクルルが、ああ、と声を上げた。

「なんかね、今日も雨みたい。だから暗いでしょ。これでもいつもとおんなじ時間なんだよ」

雨。戻ってくる、微かな棘の痛み。

「――そう」

見渡すと、同じように半身を起こしている姉のファリスと眼が合った。どうやら向こうも同じように起こされたらしい。顔を動かすと、とんでもない姿勢でシーツにくるまりながら、未だに夢の世界を楽しんでいるらしいバッツの姿も見えた。つまりは平穏無事な朝。いつもと同じ朝であることに変わりはないらしい。

「で、どうだったどうだった? なんか夢見た!?」

枕を胸に抱きしめ、クルルが瞳を輝かせながら身を寄せてくる。レナはようやく思い出した。
――他人の見た夢を知る方法がある。相手が使った枕を借り、裏返して使うのだ。そうすると前の晩に枕に染み込んだ他人の夢をそっくりそのまま覗き見ることが出来るという。平たく言えば、民間信仰――というよりはいかにも少女たちの好みそうなおまじないの一つなのだが。風が止まって以来の大嵐のために、珍しく同じ宿に連泊することになった晩だった。それを実行してみたいと昨夜クルルが言い出して、それじゃあやってみようということになったのだ。もちろん、クルル以外は軽い暇つぶし程度としか思っていなかったはずだ。寝る前に枕を交換した。ファリスがクルルに渡し、クルルがレナに、レナがファリスに渡したのだ。「そんなバカバカしい、まじないなんて」と笑ってクルルの怒りを買ったバッツのみ、その輪からは外れている。

「夢……」

知らず知らずに枕を拾い上げて抱きしめ、レナはぼんやり呟いた。
夢は――覚えている。切ない思いが胸を疼かせてもいる。
だけども、あれは。

「俺おれ。俺、覚えてるぜ」

投げやりに言って手をひらひらさせながら、ファリスが言った。

「なんか、海の夢だったな。気持ちよく晴れていい風が吹いてて、船足はもちろん快調で。子分どもがいて、シルドラがいて、……酒がうまくて」

「……それ、絶対レナおねえちゃんの見た夢じゃないよね……?」

上目遣いで見上げるクルルに苦笑しつつ頷いてやると、クルルは溜息をついた。

「そっかぁ…。あたしはねぇ、なんかお菓子がいっぱい積んであって……山になってるの。で、管理人みたいな人にいくらでも食べていいよって言われてワーイって喜ぶんだけど、食べきれないでしょ? いくらあたしでもさすがにねぇ……そしたらその管理人が急に大きな…ベヒーモスみたいな魔物の番人に変身して、お菓子を残すような悪い子は食べちゃうぞーって脅かすの」

「それで? おめおめと食われてやったわけじゃないんだろう?」

ニヤニヤと話に割り込むファリスに、クルルは頬を膨らませた。

「まさか!あんなの、サンダガ三発でイチコロだったもん。だから残ったお菓子は全部おうちに持って帰って、みんなで分けて食べたの。楽しかったしおいしかったぁ」

「ふーん……そうか。残念ながら、そいつも俺の夢ではないな。俺が一昨日見たのはお菓子の山じゃなくて、お宝の山の夢だった。番人がベヒーモスだったかどうかまでは忘れちまったけど」

「え、え? な、なんかそれ、惜しくない?」

興奮して声を高くするクルルが、くるりとレナに向き直る。

「で、おねえちゃんは? あたし一昨日はスチャラカ大行進の夢を見たんだけど、なんかそういうの見なかった!?」

「……スチャラカ?」

不審そうに聞き返している姉の声を遠くに聞きながら、レナは眼を閉じた。
思い出すのは、霧雨と、湿った土の道と、揺れる柳と――

「わたしは……」

口を開きかけ、また噤んで、レナは頭を振った。
話せるようなことではない。意味もない。
何故なら。

「……何も見なかったのよ。残念だけど」

この枕は、クルルのものではないから――
などと、言えるはずもない。

(ごめんね)

目を開くと、明らかにガッカリしたクルルの顔が見えた。

「そっかぁ……必ずしも百発百中ってわけじゃないんだねぇ。なんか残念」

「う……んにゃ……ん?」

レナはクルルと同時に顔をそちらに向けた。
うつ伏せになっていたバッツの顔が勢い良く上がり、落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回している。

「ここらに生贄のための部品が……って。あ、あれ……?」

「バッツー、おはよー。何? 寝惚けてんの?」

けらけらとクルルが笑う。

「ちょうどいいや。参考までに聞きたいんだけど、バッツはどんな夢見てたの?」

「は? 夢?」

バッツは困惑したように瞬きを繰り返したが、素直に口を開いた。

「…ええとなぁ…なんかこういう、えもいわれぬ感じの――」

身振りで何かを描こうとして断念し、バッツが頭を抱えた。苦しそうに呻く。

「あー、なんてったらいいんだ? なんていうか、おぞましい行進なんだよ。スチャラカスチャラカした大騒ぎなんだよ。あんな悪夢見たの初めてだよ…」

「……スチャラカ?」

ファリスが数分前と同じことを呟いた。ただし今度は不審げというよりは軽い驚きを含んだ調子で。

「それって、あたしが一昨日見た夢だ!スチャラカ大行進!面白かったでしょ?」

「いや、あれはもう面白いとかそういうもんじゃ……」

「まったまたぁ。お揃いだからって照れなくていいのにー」

クルルが満足げに笑って――ふっと真顔になった。首を傾げる。

「……でも、なんでバッツがあたしの夢を見るの?」

ヒヤリとするものを背中に感じながら、レナは笑顔を硬直させた。
三人で交換し合った枕。
クルルから受け取ったそれを、更にバッツのものとこっそり替えたことはレナ本人しか知らない。

(まさか……おまじないが本当に効くの?)

内心緊張しているレナをよそに、クルルは何やら難しい顔をして独り言を呟きながら歩き回っている。空飛ぶ蛙が……だの、最期の西風が……だの、気になる言葉が切れ切れに聞こえたが、何のことやらよくわからない。わからない方が良いのかもしれないが。
気にしないことにして、レナは抱えていた枕を無意識のうちに抱きしめた。

(クルルの枕を使ったバッツが、クルルと同じ夢を見た……)

それは偶然なのかもしれないし、そうではないかもしれない。

(おまじないは、たまには効くのかもしれない。ううん、きっとそうなんだわ。何分の一かの確率で夢が本当に相手に伝わるのよ)

それならば?

(それなら、あの夢は……もしかすると、本当に?)

バッツの夢に自分が?
それは嬉しいような、くすぐったいような、なんとも言えない気分だった。
けれど、そうでなかったら?
単にバッツの見た夢と同じ夢を見ているという設定の夢を自分が見ただけだったら?

(なんだか……フクザツなお話ね)

誰にも知られることはないとはいえ、それはどうにも恥ずかしい。
レナは額を押さえ、こっそり溜息をついた。どちらにせよ、事実を確かめることは永遠にできない。事情を話して本人に問うなど、できるはずがない。けれど真実を知ることが出来ないのはあまりにもどかしい。知ってしまったばかりに。
伏せていた目を上げてみると、何故かクルルがバッツの背に乗って関節技を極めているところだった。その横で無責任にクルルを応援している、楽しげな姉の姿も見える。バッツはと見れば、既に白目を剥いて失神しているようだった。
もう一度溜息をつく。

(きっと、違うわね)

きっと自分の願望なんだわ。妄想。それをあの人のせいにしたいだけ。


――乱れた髪に必死の形相、相手の双眸に映った顔はまぎれもなく。
相手の唇が微かに動いて、呟いた言葉は――


レナは顔をしかめた。今思い起こしても、その時の<レナ>の顔が気に入らない。
何かを堪えて切羽詰った表情。赤く染まった頬。それだけではない。
レナには分かる――あの<レナ>は、濡れて平らになった髪を気にしている。頬の赤みに気付かれないか気にしている。腕の、握られた部分を気にしている。同じレナ同士。だから、分かってしまう。


(あんなの、誰が見てもわかっちゃうじゃない……)


あまりの情けなさに、憤ることも出来ない。
初めは、ちょっとした好奇心だったのだ。
そのために何やらいま胸が苦しいのは何かの罰だろうか?
そうかもしれない、とも思う。心を覗きたい、と願うことはそれほど重いことだ。
けれど。
もう一度枕に頭を乗せ、あたたかい毛布を胸まで引き上げ。目を閉じて。
毛布の下で、ズキズキ痛む胸をそっと押さえて。

(だけど、わたしは――……)

雨はまだ止まないらしい。今日もここに泊まることになるのだろう。
クルルの元気な声が聞こえる。

レナはこのままもう一度寝てしまおうか、どうしようかと悩み始めていた。





050808


・あとがきらしき・

またもやバッツ君ないがしろ、なお話(酷)。
冒頭の「レナ」に違和感を感じたあなたは立派なレナマスター…かも知れません(笑)。

私の中でクルルはパーティ内最強ポジション(表)にいます。20代(一応)に囲まれた年少さんですし。ちなみに最強ポジション(裏)は多分、ファリスだと…。

なんで田舎道に柳がセット?と思われそうですが、おそらく幼児期にテレビで見た「wind in the willow」とかなんとかいう、水辺の田舎で暮らす擬人化動物たちの物語の影響で「洋風田舎=柳」のイメージが定着しているんだと思われます…(あと、何もない道の脇に立っている謎の木柵も)。どなたかご存知の方いらっしゃいませんか?柳と謎の木柵…(ザ・職権乱用)

タイトルが何やらオイシイことになってますが、実際韻を狙ったのではなく、そんなわけで柳と枕が出揃ったのは偶然の産物なんです…。たまたまタイトルに悩んでいる時に「…ハッ、柳(=willow)と枕(=pillow)って英語だと一文字違い!?よしそれ採用!」と、そういう感じで適当に決まりました(笑…えない)。
その後、念のため英和辞書を引いてみると「pillow」欄に「枕(恋の悩みの象徴)」とあったので、なんかますますピッタリかも!と狂喜乱舞。ところがその後「willow」を引くと「花言葉は〔見捨てられた恋人〕」なんていう悲惨な情報が…思わず静かにページを閉じ、何も見なかったことにしました。
いや、捨てられるのはマズイですよね(笑)。

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