:歌う声





白い光を感じる。――柔らかい朝の日差しが、閉じた瞼に触れている。
どこからか、微かなメロディーが流れてきて耳をくすぐった。
彼は微笑んだ。懐かしい――歌だ。
夢と現実の境界線に、彼は目を閉じたまま、ふわりと浮かんでいた。
柔らかいシーツの感触、柔らかい音色――それに、現実にはありえないような浮遊感。

これ以上はない、安全で心地いい時間。
その状態を、歓迎と、今にも崩れてしまいそうな切なさでもって受け止めながら。

――もう少し……もう少しだけ……

彼は、いつも待っていた。
毎朝、待っていた。
この安全な『時』を終わらせる、あの声を。

不意に、霧の向こうから呼びかけられるように、かすかに声がした。夢中で耳を澄ます。
その声は甘く、そして限りなく優しく、彼を呼んでいる。
昼下がり、木陰で鳴く鳩のように柔らかい声。鈴のような涼やかさ。
―――間違いなかった。
待っていたものが現れて、彼の胸は踊った。

(……母さん)

彼は、毎朝この声を待っていた。

自分を、夢の中から手を引いて連れ出してくれる、あの声。
聞いただけで蘇る、テーブルに置かれた蜂蜜の瓶の色。甘いパンケーキの匂いまで蘇る、この声。
あの頃、いつも自分をすっぽりと包んでいてくれた、懐かしい……あの、声。

――さあ……もう朝よ、起きなさい…

目を閉じたまま、思わず微笑みそうになりながらもそれをこらえた。
そ知らぬ顔で寝たふりを決め込み、寝息をたててみせる。
そうすれば、母は――そう、声の主は彼の母親だった――いつも決まってそれに引っかかってくれた。
楽しそうに笑いながら、こちらの様子を窺う。

これは、彼の最も好きな時間だった。

――まあ……まだ起きないつもりなのね?

そう言って優しく彼の前髪に触れる。

――困ったさんねえ。ほら、起きなさい……。

唇がほころんでしまうが、それでも目を閉じていると今度は優しく揺さぶられた。
声が笑っている。きっと、あの人もわかっているのだ。起きているのに寝たふり。
知っているけど、起こすふり。互いに試し合う、楽しい朝のひととき。

――さあ、起きて…。

――起きなさい…バッツ。起きないなら……

こうよっ、と脇腹をくすぐられると、とうとう我慢できなくなった。
笑い声をあげながら起き上がり、母さん、と呼びかけ。
そして屈んだ首筋に飛びつくように、大きく腕を広げると。





するり――
胸元から、何かがほどけていくように――





うっすらと目を開くと、彼はまだ横になっているままだった。
目の前には白いシーツ、それに、自分の手が見える。
――大人になった、自分の手。咄嗟にそれが理解できず、彼はぼんやりと手のひらを眺めた。
潜り抜けた危機の数だけ刻まれた、うっすらと消えない傷跡。固い皮膚。不恰好な爪。
歳月を飛び越えてしまったかのような一瞬の違和感の後、ようやく遅れて現実が流れ込んできた。

――母は、もういない。自分も、もう何も知らなかった無邪気な子供ではない。

あの家は――母と共に暮らした、あの幸せで一杯だった小さな家は、他人のものとなっている。
あの時間は、もう。
もう一度、今度は眠るためではなく目を閉じ、そっと手をシーツにしまいこんだ。
その耳に、静かな旋律が届く。
柔らかく、澄んだ流れのような甘い声が耳をくすぐった。耳から入ってきた声が、手足に、胸に、沁みていく。見えない柔らかな手が心の内

側を優しく撫で、五感をやんわり刺激する。

(……なんだ?)

これは、夢ではないようだった。
そっと目を開き、徐々に目線を上げてゆく。
白いシーツ。自分の寝台。少し間を空けて、隣の寝台。そしてそこに腰掛ける後姿。
秋桜色の髪を見れば、それが誰なのか、寝ぼけた頭でもすぐに分かった。

(……レナ)

窓の方を向き、囁くような声で小さく歌っている。
カーテンは、全て閉ざされていた。それでも、その薄い生地を通して弱い日差しが部屋を淡く照らしている。
この明るさを見るに、もう昼に近いのかもしれない。証拠のように、他の寝台は全て空になっている。
今は、自分と彼女以外の人間はここにはいないようだった。

「……レナ?」

かすれた声で呼びかけると、レナは慌てたように自分の口を押さえて振り返った。

「あ……あ、バッツ、おはよう。」

誤魔化すように笑っている。歌を聴かれたのが恥ずかしかったのかもしれない。

「もしかして俺……寝坊か?」

「うー…ん」

レナは、ちょっと苦笑してみせた。

「実は、そう。もう朝ご飯も片付けられちゃったの……だから、ファリスとガラフが買出しのついでに何か食べる物を買ってきてくれるって

。もうすぐ帰ってくると思うけど」

「……起こしてくれればよかったのに」

まだ上手く働かない頭に手をやりながら言うと、レナは更に困ったような顔をした。

「一度は起こそうとしたけど……全然起きなくて。最近色々あったから疲れてるんだろうって、ガラフが」

「うわ、じいさんに心配されるなんて……ま、お陰でよく寝たよ。珍しく夢まで見ちまった」

「いい夢?」

「んー……まあ、な。いい夢」

そう、良かったわね、とレナが微笑む。それだけで、何を訊かれたわけではない。
だから意味はない。ただ、なんとなく、付け足した。

「もう……忘れたけどな。」






・あとがきらしき・
実はこれ、3年も前の自分が書いたものを、ちょこちょこっとだけ直したり(誤字脱字とか)加筆したりしたものだったり…だからあんまり、自分で書いたって気がしないんですけど。小難しくしたい病になる前の、当時の簡潔な文章が輝いて見えます(やるなー3年前の米姫!)。多分この後色々続けようとして、そのまま忘れ去っていたものと思われるのですが、もちろん、今となってもその時の意図など何も思い出せません…。どうして没集に入れていたのかも謎。

とりあえず当時の私は「…(全角一文字)」を使わずに「・・・(全角三文字分)」を使っていたらしいです。忘れてましたが(^^;)なんだか全体的に横にびろーんと伸びている感じの見た目でちょっと笑えました。。

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