:知らない話




あなたの知らない話をしようと思います。



あなたは覚えているでしょうか。
あの日泊まったその宿が、他のものとそう違うといったことはなかったのです。
ただ、客室のドアがずらりと並ぶ廊下、その突き当たりに、ここの客なら誰でも出入り自由のテラスがあるということ。それがその夜のわたしにとっては大切なことでした。

小さなたくらみがあったのです。

そのたくらみのために、その夜わたしはなかなか寝付けずにいました。たくらみとは言っても、子供の悪戯のようなもので、何の罪もないものです。大掛かりなものでもありません。しかもこの場合、失敗するということはありません。ただ、何も起きないということはあり得ます。それを思うと切なさが胸を締め付けました。
不思議なものですね。わたしとあなたが出会ってから、まだたったの半年しか経っていないのです。そんなことが自分でも信じられないほど、あなたはわたしの、あまりに身近な人になってしまいました。目が合って微笑むことの同時であること、互いにさりげなく隣同士に位置を占めること。その意味。あの頃わたしは幼くも精一杯の恋をしていたのです。
あなたに会えてよかった。出会ったのがあなたとわたしでよかった。わたしはまるで道で拾った素敵な宝物のように、あなたのことを思っていました。あなたはどうなのでしょう。これは、それを確かめるための企てでもありました。

柱にかかった小さな時計が夜中を指した頃、わたしはこっそりとベッドを抜け出しました。こっそり、とはいっても一人部屋なので大して苦労したわけではありません。そうそう、少しお金に余裕がある日などは、あなたは必ず一人につき一部屋ずつ取ってくれたのでしたね。今思えば、それがわたし達に対する、あなたなりの配慮だったのでしょう。わたしにはわたしなりの希望があったりもしたので、生意気を言うこともしましたね。ごめんなさい。正直に言ってしまえば良かったのでしょうか。わたしは皆一緒に眠る寝室が好きだったのです。一人の部屋より、それは何倍もあたたかい気がします。それに……それに、どんなに眠れない夜でもあなたの寝息に呼吸を合わせれば、いつの間にか眠ることができたのです。ごめんなさい。直接謝りたいのですが……何しろもう、わたしには時間がありません。

だから今は、この話を続けさせてください。

ベッドを抜け出したわたしは、少し悩みましたが、薄い上掛けを羽織っていくだけにして、夜着を着替えることはやめました。なるべく自然に見せたかったのです。だから部屋を出る時も、当たり前に音を立てない程度の配慮は示しました。それから、廊下の突き当たりにあるテラスへの出口を目指して、ゆっくり歩き始めます。さすがにこの時間ともなれば誰でも眠っているでしょう。冬の夜の廊下は本当に静かで少しだけ肌寒く、ほんの少し足音を立てただけでも辺りの闇に叱責されるような気分に陥ったものです。城に留まっていたなら、こんな気分は絶対に味わえなかったでしょう――そんなことを考えながら、わたしは足音を殺したまま、仲間や姉が眠る部屋の前をも通り過ぎました。あなたの部屋の前もです。一瞬だけ躊躇しましたが、わたしはそのまま歩調も変えずに進みました。ドアの前を通り過ぎるなど、ほんの2、3歩で終わってしまいます。あなたの気配でも感じないかと、耳を澄ましたりもしましたが無駄でした。それでもあなたの部屋の前を通り過ぎる間、本当は心臓が早鐘を打つほど緊張しきっていたので、果たして足音を殺しきれていたのか、本当に耳を澄ましてなどいられたのか、怪しいところです。けれどそれがわたしの精一杯でした。それほどわたしの心はあなたで一杯なのです。

わたしは何事もなくあなたの部屋の前を通り過ぎ、そのまま廊下の突き当りまで到達してしまいました。廊下は相変わらず静かで、まるで何事も起きそうにありません。心に発生した落胆と安堵は、意外なことに同じぐらいの割合でした。少しだけ落胆の方が強かったようにも思います。けれど残った僅かな希望に縋ってテラスの扉に手を伸ばした時、わたしは確かにドアノブの回される微かな音を背に聞きました。ドクン、とまた厄介な早鐘を感じながら、けれどわたしは振り向きません。狡猾にも――と、その時わたしは思いました――何食わぬ顔で、テラスの扉を開いたのです。ほぼ同時に背後でいずれかの客室のドアが遠慮がちに開かれる音を聞きながら、わたしはテラスへと降り立ちました。素早く後ろ手に扉を閉ざし、そのまま真っ直ぐ歩いていきます。その半円形に広がるテラスは外観よりいくらか広くて、手摺のある場所まで8歩もかかりました。夜露に濡れた手摺にもたれて、誰もいない深夜の町を見下ろします。別に、風景が見たかったのではありません。わたしは、後からテラスに下りてきたのがあなただと直感していました。何も気付いていないふりをして、その実、あなたの近付いて来る気配に全神経を集中させていたのです。それはどうしてか、とても気持ち良く思えるような経験でした。わたしはまるで心地良い楽の音でも楽しむようにあなたの足音を背で受け止め、酔っていたのです。だからあなたの手が実際にわたしの肩に置かれた時に見せてしまったわたしの驚き、それだけは本物でした。

振り向くと、あなたが立っていました。
――眠れない?
そんなことを笑顔で問うあなたの声に、わたしはそれだけでとろけてしまいそうです。けれどわたしは平気なふりをして、あなたこそ眠れないの、と聞き返します。あなたは、そうなんだ――と言い掛けたところで黙り込み、一瞬の間をおいて言い直しました。
――本当は、足音が聞こえたから、気になって来てみたんだ。
そう言って、照れたように笑います。足音? と聞けば、そう、と頷きました。
そしてあなたは言いましたね。足音でわたしだとわかった、と。それがどれほど嬉しい言葉だったか。あなたはまた、こうも言いました。
――今日でちょうど、俺達が出会って半年なんだ。知ってた?
わたしは心の底から喜びたいのを隠して、うん、とだけ言いました。あなたが決して甘い言葉や愛の囁きを口にはしない人だということは知っていましたから、それで充分だったのです。それからはほんの少し、眠れない夜の過ごし方だのこの季節の星の運行についてだの、他愛のない物語などしただけで、それぞれ部屋に戻りましたね。それだけだったのに、わたしはその夜、それから後にも先にもないほど満たされた思いを抱いて眠ったのです。なぜならあなたはわたしの音を聞き分けてくれた。わたしがあなたの音を求めるように、あなたはわたしに気付いてくれた。

たったそれだけで、わたしのたくらみは成就したのです。





……悲鳴が聞こえます。
誰かの怒鳴り声。どこかで窓が割れる音。何か巨大な物が震えるような音。地鳴り。
風などないはずの空さえ、低い唸り声を上げているようです。人も自然も何もかも、わたしを囲むものは今、滅びの音を奏でています。
「レナ様!!」
こんなに悲痛な乳母の声と顔を、わたしは知りません。
「レナ様!!」
そうやって生まれた時から呼ばれ続けた名を、今は自分のものと思えないのは、何故なのでしょう。まるで他人の名を聞いているようです。わたしは狂ってしまったのかもしれません。
そうですね。あなたが呼ぶわたしの名前。それだけがきっと、今のわたしにも理解できるただ一つの名なのでしょう。
――けれど、それを口にできるあなたはここにいない。

破れた窓の外を、黒い流星がひっきりなしに流れ落ちていきます。その尾が通った後は……何故なのでしょう。黒い尾が、いつまでも消えません。その部分だけ、風景に墨でも垂らされたように、何も見えません。遥かな山脈も森林も、まるで次々に切り裂かれていく風景画のようなのです。その向こうは、一面の漆黒。わたし達が――あなたが躍起になって救おうとした世界とは、こんなにも平たい、薄いものだったのでしょうか。目を閉じて、それから開いてみます。何も変わりません。轟音、悲鳴。全てを包み込む闇。夢ではないようです。それともこれは、わたしだけに見える狂った幻なのでしょうか?
そうしているうちにも、次第に世界は黒一色に染まっていきます。黒、それはいかにも不吉な滅びの色です。けれど不思議と怖くはありません。わかっているのです。わたし達からは、世界が消えて行くように見える。けれど恐らく、実際に滅びに瀕しているのは今ここにいるわたし達の方なのでしょう。その証拠に……ほら。見上げれば、城を中心として円形にわたし達を囲むこの黒い壁の頂点に、手のひらほどの青い天井が見えます。空です。そこでは白い雲が悠々とたなびき、渡って行く鳥達の影が逃げ惑うわたし達を見下ろしています。まるで苦労など何も知らないかのように。きっと悲鳴を上げても、あそこまでは届かないのでしょう。
「レナ様!!皆にご指示を!!」
また、乳母が叫んでいます。けれど一体、わたしに何が出来るのでしょう。
わたしの言葉など、誰一人として待っている者などいません。わたしが何か言うより先に、城の者達は勝手に逃げ始めたのです。そしてこの騒ぎ。けれどいまだに悲鳴が聞こえ続けているということはやはり、逃げ切れていない者が多くいるのでしょう。誰一人逃げられてなどいないのかもしれません。適切に皆をまとめきれなかったわたしの責任なのでしょうか。今となってはどうしようもありません。
もう一度、乳母が叫びます。わたしは彼女を見下ろします。
逃げなさい。わたしがそれだけを言うと、彼女は呪縛が解けたように、弾かれたように立ち上がりました。そのまま一目散に逃げ出します。そうなのです。この忠実な老女は恐慌状態に陥りながらも、わたしの許しなしに逃げ出すことができなかっただけなのです。可哀相なことをしました。今からではきっと、あの黒い壁を抜けることはできないでしょう。もっと早く気付いてやるべきだったのです。もっとも、この災害は明らかに人知を超えたものの悪意でしょう。一人としてこの城から逃げ出せた者がいるとは到底思えません。

そういえば、わたしにここに残るよう説得してきたのもあの乳母でした。あの朝、あなたがいなくなったことにようやく気付いた時のわたしの気持ちが、あなたにわかるでしょうか?わたしはあなたが出て行こうとしていることに、少しも気付かなかったのです。たくさんの足音から、あなたのものを聞き分けられなかった。あなたの心が読めていなかった。その事実がどれほどの衝撃をわたしにもたらしたか、あなたにはわかりますか?全く油断していました。あなたはわたしが拾った宝物、あなたのことならなんでもわかっている、そう思っている間に、わたしは全てを取り零していたのです。我ながらいい気なものです。きっとあなたは、わたしのそういった滑稽で醜い心に気付いていたのでしょう。いえ、皆気付いていたのに違いありません。そうしてわたしだけが一人で舞い上がっていたのです。そのせいなのでしょう。気が付けば、わたしは一人になっていました。立て続けに殴られるような衝撃の中、ただ呆然と立ち竦むことしかできないわたしに、乳母は言いました。
さあ、夢見る時間は終わったのです。これからは私達を、貴方様のただ一つの現実にして下さいませ――
頷く他ありませんでした。あなたはわたしから逃げおおせたのです。もう追いつくことはおろか、捕らえることもできません。核を失い、柱を失いながらも、わたしはどこかで生きねばならない。それがここ。

そうして、何日を過ごしたのでしょう。例え心が空っぽだとしても、身体を動かすことはできました。表情を取り繕うことも、やってみれば案外簡単でした。練習すら必要としなかったほどです。それがそのままわたしの心の醜さを表しているのかと思うとぞっとしますが、周りはわたしの変化を心から喜んでいます。しとやかで、従順になったと。
わたしはまるでガラスの箱に入れられた人形のようです。美しく飾られ、人目に晒され、傷や埃から厳重に守られ、惜しみなく賞賛を送られ、――けれど誰もわたしに触れようとはしない。ガラスを通して眺めるだけ。

ああ、思えばあなたもそうだったのです。決してわたしに触れようとはしませんでしたね。たまに腕が触れ合ったりしても、すぐにびくりとして引き剥がしていましたね。何かを誤魔化すような笑みと共に。側にいても、ただ笑って立っていただけでしたね。それはあなたの優しさなのだと思っていました。でもきっとそれは、わたしが思っていたような思いやりではなかったのでしょう。
ああ。今わかりました。わたしは少しもあなたのことなどわかっていませんでしたが、あなただってわたしのことをわかってくれてなどいなかったのです。そしてわたしだって、わたし自身のことなど少しもわかっていませんでした。今、わかりました。わたしが心の底に抱く本当の望みは――恐ろしいほどに強い望みは、あなたがわたしを閉じ込めるこのガラスの箱――城を打ち壊し、手を引いて連れ出してくれることだったのです。わたしがあなたを捕らえているようで、本当はわたしがあなたに囚われていたのですね。

気が付くと、わたしは一人で塔の階段を上っているところでした。どこかが燃えているのでしょう、足元から熱気が上がっていきます。呼吸するたびに、肺が焼けるようです。けれどわたしは上るのをやめません。焦ることもしません。どうせもう終わりなのです。ならばせめて、最期だけでも潔くありたいと思うのは悪足掻きだと思いますか?
長い長い階段の先に、外への扉が見えてきます。その時わたしは、不思議とあの夜の廊下を歩いているような錯覚に陥りました。はっとして気配だけで後ろを探ると、確かに誰かがわたしと同じ歩調でついてきているようなのです。諦めたはずの胸が高鳴りました。扉にたどり着きます。開きます。
外に出ます――
既にそこは一面の闇でした。いくら目をこらしても、前方には何も見えません。足元の床や埃と煤で汚れた自分の服は見えるのに、肝心の世界がどこにもないようなのです。ふと気付いて見上げると、今は指の先ほどにまで狭まった、青い光がからかうように覗いています。あなたの瞳の色。今はなんて遠いのでしょう。
何かの気配に気がついて、わたしはゆっくりと振り返りました。そうです。わたしはこんな時なのにも関わらず、またも自然を装おうとしたのです。けれどその必要はありませんでした。後から続いてくるような人影はありませんでしたし、熱と煙を吸い過ぎたわたしも、もう限界だったのです。すべてわたしの勘違いだったに違いありません。わたしは床にくずおれるように倒れると、熱っぽい四肢を投げ出すように横たわりました。それ以上、いくら命じても指一本だって動かすことが出来ません。目の前がぼやけます。重い瞼が自然に下りてきます。まるでわたしの人生の幕引きそのもののように――






生温い空気が心地良く頬を撫ぜていきます。
ああ……本当にもう時間がありません。
視界が徐々に暗くなって行きます。もとより風景など剥ぎ取られ、押し付けられるような闇ばかりで何も見えないのですが。
終焉、という事実をわたしは素直に受け入れようとしていました。いずれにせよ、あなたの声を――名前を失った時点で、わたしは死んだも同然だったのです。それにこのまま空っぽの人形として生きていくより、潔く散ってしまう方が楽には違いありません。そうなると今まで得た知識も経験も思い出さえも放棄しなくてはならないという事実も、わたしをこの世に引き止めるための何の感慨ももたらしませんでした。ただ一つの気掛かりといえば、こんなにもわたしを支配するあなたへの想いが、このまま消えてしまうのだろうかということです。恐らく、歴史の一部としてのわたしの名は残ります。悲劇の王女としてか、国を守れなかった無能な姫としてか、それはわかりませんが、歴史家がわたしの名を書き留めてくれるはずです。けれどわたしが抱いたまま死んだ想いは、誰にも伝わらないまま朽ちて行くしかありません。それはあまりにも不公平であると思います。けれどもう、何をするにも時間が足りない――そう、優しいのは、この闇だけです。やわらかくわたしを包み込み、まるで抱き締められているように感じます。全ての音が消えました。完全な闇が、城を――わたしを、とうとう包み終わったのです。

一切の闇に息苦しくなって目を閉じると……何故なのでしょう、わたしから離れていったはずの、愛しくて仕方ないあなたの顔が見えるようです。わたしは裏切られたのではなかったのでしょうか。何故、あなたを憎みきることができないのでしょうか。わかりません。けれど、ああ……なんて力強くて気持ちいいのでしょう。あなたの腕に抱かれるのは、きっとこんな感じなのに違いありません。わたしはただもううっとりと、酔ったように身体の力を抜きました。激しい眠気が襲ってきます。永遠にこの安らぎを得ることが出来るのならば、これが死でも厭わない……

そう思っていたのに、数秒後、わたしは目を開いていました。そう、何の問題もなく、あれほど重かったわたしの瞼が開いたのです。心なしか、身体までもが軽くなったように思います。いつの間にか辺りは城も床も見えなくなって本当の闇、そこに存在する自分の身体一つという有様になっていましたが、とりあえず立ち上がってみました。歩いてみます。身体は完全に良くなっていました。けれどわたしは死んだはずなのです。もしかするとここは死の世界で、死人はこうして生前と変わらず過ごすものなのでしょうか。わかりませんが、不思議な気配を感じます。何かがわたしの身に起こったのです。それとも、これから起こるのです。わたしはじっと、何もない、黒一色の前方を見つめていました。やがて――

ピリッ……と、目の前の闇に亀裂が入ったように思いました。何かが出てきます。手です。青白い鉄甲に覆われた、手。それを見た瞬間、わたしは思わず後ずさりました。既に死んだはずのわたしが恐れるほど、その存在がまだこの世に留まっているなど、ありえない。恐ろしいことなのです。わたしはあなたの剣がその存在を貫く瞬間を、確かに見たのですから。――けれど、それなら、これは?
ずるり、と滑るように腕が続いて出てきます。やはり、全体が青白い装甲で覆われた腕です。足から力が抜けて、わたしはその場に座り込みました。あの存在は、生きていた。やはり話に聞いた通り、不死というのは本当だったのに違いありません。それならばわたしの逃げ場などどこにもないということになります。逃げるだけ無駄に決まっています。
腕に続いて肩が出てきました。やはり装甲に覆われています。その次に出てきた首筋――不思議なことに、そこは何にも覆われていません。人間の、肌のような色が見えます。

助けて、とわたしは思わず呟きました。その気配に圧倒されただけで、大量の涙が溢れてきます。なんて情けないのでしょう。死んだはずなのに、わたしはこれほど臆病なままなのです。動くことも出来ずに、あなたの名を呼びます。それは空しく宙に消えて行きます。
青白い手甲が伸びてきて、わたしの頬に触れました。喘ぐばかりで、それをわたしは振り払うこともできません。首に続いて、ずるり、と仰け反った人間の頭が現れます。鉄兜が現れるものとばかり思っていたわたしは、少し意外に思いました。あれは、確か頭から爪先まで、文字通り全身を鎧で覆われていたはずです。けれどそれで恐れが消えるわけではありません。その首は闇を抜け出た反動で大きく仰け反り、ガクリと俯きました。乱れた黒髪が、ばさりと顔にかかります。鎧に覆われた胸まで現れたところで、それは動きを止めました。それが、顔を上げます――

わたしは、ただ息を呑むことしか出来ませんでした。癖のある髪も、真っ直ぐに人を見つめる眼差しも、それはまるで、あなたそのものだったのです――ただ、どちらも色が漆黒だということを除けば。よく見れば肌も少し白すぎる気がしますし、後ろ髪も記憶にあるより長めです。それに口元に浮かんだ笑みや目付きもどこか皮肉げで翳があります。それでも顔の造作は間違いなくあなたのものですし、それに――わたしに触れる指先の、なんという優しさと力強さ。恐る恐る上から指を重ねても、それはわたしを拒みません。微笑の形をした〈あなた〉の唇が、うっすらと開きました。
《まだ、死ぬ時ではない――》
〈あなた〉がそう言い、わたしは夢中でそれに聞き入りました。その声もまた、あなたのものです。ただ〈あなた〉の声音はあなたのものと比べるとさして優しくもあたたかくもなく、けれど厳然とわたしを従わせる強さを持っていました。
(――あの者は、闇で出来ている。)
そういえば、そんな話を聞いたこともありました。あの時は、あなたも隣にいたから知っているでしょう。世界中の人の心の闇が集まって、誰にも恐れられるモノが生まれた。その者は即ち<全て>であるが故に、他の何者でもありえない。皮肉で、孤独な存在……
ならばこれは、やはり、あなたの一部で出来ているのでしょうか。あなたの心に闇があるとは思ってもみませんでしたが、<全て>に闇の部分が存在するというのならそれも正しいはず。つまり<全て>の闇で、その奥にある<あなたの闇>だけが、あなたを求めるわたしの目に映るのです。
《お前の力が必要なのだ。私に従い、共に戦って欲しい…》
頷きます。わたしがあなたの言葉に逆らうはずがありません。何より、あなたの声がわたしを望んでくれているのです。闇から出た心でもいい。あなたの道具で構わない。生きるのも戦うのも死ぬのも全てあなたのためになるというのなら、それはどんなに素晴らしい一生なのでしょう。もう叶わないと思っていた望みが、甦ったのです。
わたしは〈あなた〉に、一つだけ要求しました。名前です。わたしを呼ぶ名を、あなたに約束して欲しかったのです。〈あなた〉は迷うことなく、一つの名を与えてくれました。それは今まであなたに呼ばれていたものとは少しも似ていませんでしたが、それでもわたしは満足しました。〈あなた〉の口からあなたの声で語られる、その古い、長い、美しい名は、すぐにわたしの心に沁み込んでいきます。同時に、何か冷たいものが背中から浸透してくるような気もしましたが……気のせいなのでしょう。急に頭が冴え冴えとしてきて、心と関係なく手足が勝手に活動を始めるような……そんな気もしましたが、それだってどうでもいいことです。新しい名を得て、わたしは生まれ変わったのです。ここで身体の動きと噛みあっていないわたしの心が間違っているのかもしれませんし、かすかによぎった予感通り、何か別人の心、そのようなものがわたしに取り憑いて勝手にわたしの身体を動かしているのかもしれません。〈わたし〉の腕がゆっくりと、望みもしないのに〈あなた〉の首に巻き付きます。その乱れた髪に触れて、優しく撫で付けます。自分からは見えませんが、うっとりと、微笑みさえ浮かべているような気がします。それはなんと恥ずかしく、恐ろしく、そして甘美な眺めなのでしょう。それは、確かに生前わたしがあなたにしたかったことなのに違いありません。けれど、それはもうどうでもいいことです。〈あなた〉がわたしを拒まないという、それだけが大切なことなのです。〈あなた〉は漆黒の瞳に鋭い微笑みを浮かべながら〈わたし〉の髪に触れ、そして〈わたし〉に一つの命令を囁きました。わたしが何か思う間もなく、〈わたし〉の首が勝手に肯います。ただその時にはもう、わたしは〈わたし〉の身体が勝手に行動してくれるのに任せようと決めていました。何しろわたしは古い名前のままのわたし、あなたに呼ばれない、永遠に必要のないわたしなのです。


さあ、もう本当に時間がありません。
〈あなた〉が〈わたし〉に命じた最初のこと――それは〈わたし〉の手であなたを葬り、今なおこうして昔を語り続ける、古いままのわたしをきちんと消し去ることだったのです。
久しぶりに見たあなたは相変わらず癖のある茶色い髪、どこまでも澄んだ青い瞳を持っていました。けれど昔見た笑顔だけはそこにありません。声も聞こえません。今はボロボロに傷付いて地に倒れ、苦しそうに胸を押さえて喘ぐばかりです。もちろん、今あなたをこうして見下ろす〈わたし〉に傷付けられたのです。あなたが息絶える前に、わたしは全てを語り終えねばなりません。そうできなければ、わたしは消えることができません。時間がないとはこういうことなのです。
血に濡れたあなたの手が、もの言いたげに持ち上げられます。命乞いのつもりなのでしょうか。けれどもう、わたしにはどうしようもないことなのです。
あなたのことは愛しています。心ごと、身体までも売り払ってしまうほどに。
けれどあなたはそうではありませんでしたね。わたしには、例え力だけでも必要だと言ってくれる〈あなた〉だけが本当のあなたでなくてはならないのです。わたしを必要としないあなたなど存在して欲しくないのです。だからあなたを殺します。
自分勝手ですね。本当はわかっているのです。何もかもが間違っているのではないかと。そうでなければ、わたしが狂っているだけなのでしょう。けれどもう戻れません。二度とあなたを失いたくないのです。
そう、これがわたし。あなたの知らない、わたしの物語なのです。




…さあ、わたしの役目は終わりました。もう話すことはありません。
さようなら――お互いに。後のことは〈わたし〉が上手くやってくれるのでしょう。
全ては〈あなた〉のためであり、ひいてはわたしのため……であるはずなのです。
わたしは満足して、〈わたし〉に全てを委ねるはずでした。

けれど。

話し終えて消えようとするわたしは、最後に見てしまったのです。あなたの顔に、優しい微笑が浮かんでいるのを。それは苦しさを押さえ込んでいるからこそ優しく見えるのでしょうか。傷付いた瞳を必死にこじあけて〈わたし〉を見ています。上げられたままの手が、静かに揺れています。〈わたし〉があなたの命を奪う呪文を唱えているというのに。あなたは目を閉じ、乾いた唇をうっすら微笑の形に開いて、ただ短い言葉を囁きました。





――わたしの、名前でした。












>あとがきらしき

ななななんでしょうこれ…!
いつか書こう書こうと思っていたレナとメリュジーヌとエクスデスの話が、何をどう間違えたかこんな形態に。あまりの暗さに窒息しそうです。
おまけに行間の狭さと言ったら…!
(…窒息しちゃった方、ごめんなさい。そして長い上に読みづらいものをこんなところまで読んでくださってありがとうございます)

卒論を書く合間、飽きた時間に少しずつカタカタと思いつきで書き溜めていたら、こんなものが出来上がりました。いつもならノリで書いた文章は没なのですが、せっかく卒論も出来上がったことだし、と、自分の記念ぽくサイトに上げてみました。



…………



…3秒で後悔が始まりました。書いたものに後悔を覚えるのはいつものことなのですが、これは密かに最速記録だったり。
(だだだって、い、いろいろ、恥 ず か し い …!文章久しぶりだし…!
メインは、珍しげな?暗黒面レナ(←安直ネーミング)…と見せかけて、変な(穿った)設定を加えられているメリュ&覇王様、…と見せかけて2Pカラー(?)闇バッツです。黒髪ロングはカッコいいんじゃないかという妄想のせいで、こんなことに……(でもきっと大して変わらない予感)

あとは、「いつもやらない変な文体でいきたいなー」とか思っていたのですが、この点は結構楽しかったので(本当に変ですが)結果オーライ(?)。


>補追
トシ子さんが黒バッツイラストを描いてくださいました…!
こちらからどうぞ!
(2004/03/01)
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