:一つの誓い〜桜花雪






春の日は穏やかに。
舞い行く花は波のように。



ほんの少し与えられた午後までの余暇を青空の下で過ごすことにして、レナはバルコニーの扉を開けた。
昨日まで雨続きだったのが、今日は良い天気。僅かに水気を帯びた空気が心地いい――その心地良さを少しでも自分の部屋へ入れておきたくて、扉はわざと開けっ放しにしておく。暑くもなく、寒くもない、何ともゆるやかなこの瞬間。

レナは深呼吸すると、手摺にもたれて城の中庭を眺めた。
ようやく冬を越えた草木は早くも青々とした葉を茂らせ始めている。それにも増して目に鮮やかなのは、今を盛りと咲き誇る花――庭師の手で整えられた花壇の花と、それを覆うように立ちそびえる満開の桜。昨夜の雨でそこから離され、それでも地面をその色に染めようとしている可憐な花びら達。それは今なお止まらず散り急ぎ、陽光と共に音も無く降り注ぐ。まるで、春に降る雪のように。

いつまでも飽きないその眺めを楽しむレナの耳に、遠く錆びた鉄の軋む音が届いた。
レナは自分の世界から戻って顔を上げた。――今の音は、城門が開かれた音だ。誰か訪ねて来たのだろうか。
思う間もなく来客を告げるファンファーレが響き、小さな期待が胸に点る。レナは身を乗り出し、客の姿を目にとらえようとした。が、ここからではちょうど横の塔が視界の邪魔をする。さらに身を乗り出し、もっと乗り出し、これ以上は落ちるだろうほどに乗り出して、ようやく前庭の様子が見えた。最初に門をくぐって出てきたのはいつもの衛兵で、後に続いてようやく姿を現したのが目的の客だった。衛兵が立ち止まり、丁寧な礼を取りながら、何かを話している。客の青年も返事をしながら、綱で引いたチョコボのことを示しながら何やら笑いかけている。その、笑顔の眩しさ。

――こっちを向いて。

レナの祈りに応えたように、青年がふとこちらに顔を向けた。
レナが息を詰めて瞬くと、笑顔のまま、まるで先を読んだように手を上げてみせる。嬉しさにレナも手を上げようとして、腕だけを支えに身を乗り出した今の体勢では無理だと気付いた。思い切って叫ぶ。

「バッツ―――」

レナ、と声が届く。すぐ行くから、落ちないで待ってろよ。
レナは声に出して笑いながら、頷いた。バッツも笑いながら頷くと、城内から現れた別の城兵に先導されて建物の陰に消えた。また別の兵が、バッツのチョコボをどこかへ引いて行く。それは最後まで確認せずに、レナは手摺から離れて部屋へ駆け込んだ。これで、午後からの政務は取り止めだろう。もうすぐ乳母が、来客の存在を告げに来るに違いない。




待ち受ける身としては長い時間だったような気もしたが、実際大して時間が経過したわけではなかったらしい。――衛兵が客を城の中に導き、小姓が客室まで案内し、女官がそれを上官に伝え、上官は大臣などもっと目上の臣に伝える。それが乳母に伝わり、その乳母がレナを呼びにくるまでの、たったそれだけの時間。
そうは言ってもやはり一刻も無駄にはしたくない気持ちで、レナは正式な儀礼にのっとって来客を告げる乳母の長口上を最後まで聞かずに部屋を飛び出してしまった。
とりあえず、会える場所が分かればそれでいい。それと、いつもの謁見室ではない待合場所がレナの心を押した。

――飛竜の塔は最上階にて、お客人がお待ちです。

長い長い階段を苦もなく上りきり、一応髪を払い、服の裾を伸ばしてから扉を開く。飛び込む日差しに一瞬だけ目を窄めた。

「……よっ」

声だけを先に受け取って、レナはようやく目を開いた。慌てなくても逃げないだろうということはわかっているが、今すぐ姿が見たい。
会いたい人は、すぐそこに立っていた。緩い風に吹かれながら、はにかんだように笑っている。途端に話したいことが数え切れないほど次々浮かんでくるのを抑えて、レナはただ笑った――その笑顔に、幾つ分もの言葉を託すつもりで。

「…参りましたよ、レナ姫」

「歓迎いたします」

丁寧すぎた挨拶に同時に吹き出して、二人は互いが変わっていないのを確かめた。

「いや、相変わらず」

バッツが笑いながらレナの肩を叩く。その手が触れるたびにレナの心は弾んで、余計に笑いが止まらない。

「相変わらず、見事な姫っぷりで」

「バッツこそ」

言うことが一瞬見つからず詰まった後、レナは軽くバッツの腕に触れた。

「相変わらず、見事にバッツじゃない」

「なんだよそれ」

おかしそうに笑うバッツに釣られてまた笑いながら、レナはそれとなくバッツを観察してみた。
茶色い髪は記憶の中の物よりも明るく輝いているし、声は相変わらず若くてよく通る。それは変わっていない。
ただ、少し伸びた気味の髪が頭部の輪郭を僅かに変えており、よく見るといつもの青い上着も形が変わっていた。それは脱ぎ着する度に胸紐を結って首周りを調節しなくてはならない型のものなのだが、何故か半分ぐらいまで結ったところで固結びにしてしまっている。レナが見つめているのに気付いたのか、バッツは照れたように笑いながら胸紐の結び目を指で摘んだ。

「ああ、これな…本当は毎回毎回結びなおさなくちゃいけないらしいんだけど、面倒でさ。解けないように結んじゃったんだ。この位置で止めておけば着替えの邪魔にもならないし」

「昔、着てた服はどうしたの?」

レナにはその方が気になる。バッツは僅かに苦笑した。

「あー…あれな。あの服は…繕えると言っても、年がら年中雨風にさらされてきたからな。さすがに五年が限界だったよ」

「棄てちゃったの?」

レナが目を見張ると、バッツは少しだけ決まり悪そうに笑った。

「うん、まぁ…いくら塞いでも穴だらけだったし、生地も薄くなってたし、色も落ちてたし」

「じゃあ、しょうがないわよね」

レナは気を取り直そうと笑った。

「…その服も似合ってるし」

「でもなー」

バッツがジトッと上目遣いでレナを見る。レナはきょとんとバッツを見返した。

「でも…何?」

「…そうは言っても、胸紐ぐらいきちんとしろって思ってるんだろ?」

「ええっ?」

レナが思わず吹き出すと、バッツも嬉しそうに笑う。

「お、思ってない!思ってないわよ!」

「そうか〜?どうだかなあ〜」

しばらく心の底から笑い合ってから、二人はふと静かになって見詰め合った。
柔らかい風が、間をすりぬけていく。

「…一年ぶり、のはずだよな。確か」

「そうね」

レナはバッツの瞳を覗き込んだ。夢の底で見るような深い、深い、碧。
その中に今、自分がいる。

「俺は二十三になったよ」

その深い響きにレナはハッとなった。
はっきり何故とはわからないが、何か重要なことを告げられたような気がした。

「…わたしだって、あと数ヶ月で二十二よ」

「そっか」

バッツは目を逸らして空を見上げた。鳥が一羽、遥か上空を音も無く横切っていく。

「…おめでとう」

レナが怪訝に見上げると、バッツは微かに笑って見下ろした。

「いや、その頃にはここにいないと思うから…俺。先に言っとこうと思って」

「ああ…そういうこと」

なんとなくはぐらかされたような気分で、レナは礼をした。

「それはどうもありがとうございます。でも、絶対…来てくれない?」

自然と試すような口調になる。レナはじっとバッツを見上げた。
バッツは困ったように笑うと、また視線を空へと逸らした。

「…二十二か」

レナが黙っていると、バッツは空に向かって溜息をついてみせた。

「どーりで…綺麗になるわけだ」

「…お世辞は」

「いや、一度よーく考えてみろよ」

バッツは突然明るく口調を変えた。助言をくだす教師のように語り出す。

「俺は男だぞ。いくら知り合いだからって、妙齢の王女様の誕生パーティーに個人的に招かれるアイツは何者だ!?何様だ!?…って、みんな思うだろ」

その大仰な身振りに、レナはクスリと笑った。

「そうかしら…」

「そうだよ」

自身も笑いながら、バッツが続ける。

「変な噂が立つかもしれないし…人は噂好きだからな。そしたらレナが困るだろ」

「困る?」

「そういう話を耳に入れられたら困るな、っていう貴公子サマの一人や二人や三人や四人…レナにもそろそろいるんだろ?」

「ええっ?」

レナは思わず明るい声を上げて笑った。

「四人も…いたら問題じゃない」

バッツも、いたずらを仕掛けた子供のように笑っている。

「いや、じゃあ一人でも」

「残念ながら」

ふと吹いた強めの風にドレスの裾をなびかせ、レナはふわりとバッツに向き合った。
少し驚いたようなバッツの顔を覗き込み、柔らかく笑いかける。

「…早く、結婚…してほしい?」

「…別に」

そう、よかった、とレナはバッツから離れて背を向けた。

「…じゃあ、次の縁談も断っちゃおうかな」

「…………」

しばらく沈黙を挟んだ後、突然バッツが素っ頓狂な声を上げた。

「はあ?」

「話がね、ないわけじゃないのよ?」

なぜだか可笑しくて、レナは笑いをこらえながら振り向いた。

「今まで三回だったかな…でも、なんだか気が乗らなくて。悪いとは思ったんだけれど、丁重にお断りさせていただきました」

「かわいそうに。三人もわがまま姫に振り回されて」

言葉とは裏腹にニヤニヤしながら、バッツが頷いた。

「大臣あたり、大騒ぎしなかったか?」

「早くレナ様のお子が見たいのに、って本気で泣いてたわ。姉さんは笑ってたけど、乳母は本気で怒るし…三回目にはさすがに諦めかけてたみたいだけど」

「やっぱなー」

何故か満足そうに笑うと、バッツはふと考え込むような仕草をした。

「…ははぁ、それで四回目も断るのに、俺のせいにするわけか」

「別に、そういうわけじゃないけれど」

レナが笑って否定する。

「結局はわたしの意志で、わたしの責任だから」

それで、その話題は終わった。





日差しは相変わらず穏やかで、時間だけが眠くなるほどゆるやかに過ぎていく。



「…ねぇ、それ何?」

しばらくして、レナがバッツの胸元を目で示しながら訊いた。

「その…鎖?というか…ペンダント?」

「ああ、これか」

バッツが服の中に手を入れ、仕舞われていた銀鎖を引き出す。その先には同じく銀色の、薄い小さな板が下がっていた。

「やっぱりペンダント?」

「いや…まぁ、似たようなもんか。お守りなんだ。アミュレットってやつ」

「アミュレット…」


目の前に差し出された銀の板を、レナはじっと見入った。矢と盾と花を組み合わせたような、不思議な紋様が表面に彫られている。
レナは思わず長い息を吐いた。

「…綺麗」

表面を指で触れると、ほのかに暖かい。それは直接身に付けていた当人の体温が移ったからだと気付いて、レナは慌てて指を離し、なんとなく赤面した。

「古代ロンカ文字を図案化した物なんだってさ。ま、所詮は土産物屋に置いてあったような物なんだけど」

バッツは何も気付かず淡々と解説する。

「昔は文字が魔力を持ってるって信じられてて…まぁ、その名残と言うか。好きな意味を持つ文字をいくつか選んで、彫ってもらうんだ」

「ね…それはどういう意味なの?」

さっさと仕舞われかけるそれをレナは指差した。バッツが動きを止める。

「『道中安全』?あ、『健康祈願』とか?」

「んー…と」

バッツは考え込むように板を睨み、小さく唸った。

「…『永遠の』」

「……永遠の?」

レナは大人しく続きを待ったが、バッツは溜息をつくだけだった。

「…悪い、忘れた。いい加減に『これとこれ』って見た目で選んだだけだったから」

それだけ言うと、バッツはまた大儀そうにアミュレットを服の中に戻そうとする。
レナは慌ててそれを止めた。

「あ、待って!…裏に、何か書いてある」

「裏?」

バッツはギョッとしたように、銀の板を握りしめた。

「…き…気のせいじゃないのか?前に見た時は、裏には何も…」

「見せてくれない?」

「いや、だから、何も無いって」

レナはしどろもどろになったバッツの顔をじっと見つめたが、やがて小さく笑った。

「おかしいわね…確かに、文字が彫られているのが見えたんだけど…」

だから気のせいだって、と呟くバッツの声は弱い。
レナは笑いながら、後ろ手に腕を組んで見上げた。

「それでは、この中から彫られている言葉を正直に答えてください。その一、バッツの好きな人の名前。その二、バッツの奥さんの名前。その三、バッツの子供の名前」

「なんだよその選択肢…」

バッツが空いた片手で目を覆う。

「期待されてるところを裏切って悪いけど、俺は未婚だし子供もいないから」

「ふーん…?」

レナは首を傾げて見上げると、くるりと背を向けて俯いた。

「…この間は結婚したって、嬉しそうに言ってたのに。子供もできたって言ってたわよね?」

「はあっ!?」

本気で驚いているバッツに、レナは小声で付け足した。

「…ってまぁ、それはただの夢だったんだけど」

「なんだ、夢オチかよ…」

バッツは本気で脱力したように、ヘナヘナとしゃがみこんだ。

「あービックリした。俺がいつ子持ちになったのかと思ったぜ」

「なんだ、違うの?」

レナは元気を取り戻したようにニッコリ笑うと、ドレスが床につくのも構わずにバッツの傍にしゃがみこんだ。

「あんまり生々しかったから、正夢かと思ったわ」

「あのなー…」

バッツが軽くレナを睨む。何か言いかけた口を閉ざして、バッツはその場にごろりと寝転んで目を閉じた。

「…どんな夢だったんだ?」

「ある日、バッツが来てね」

レナは記憶をたどろうと頭を巡らせた。

「いらっしゃい、って言う前にバッツが嬉しそうに叫んだの。『俺、結婚することになったんだ、子供が出来たから…』」

「…子供が先なのか?」

バッツが不本意そうに声を上げたが、そのまま続ける。

「だって、バッツがそう言ったんだもの。…それで、そう。相手はどこかの町の普通の女の人で、これからはその町で一緒に暮らすことにしたんだ、もう旅なんてやめて落ち着くんだって…だから、おめでとうって言って、姉さんやクルルやシド達もみんな呼んで、みんなでお祝いしたの」

「…それで?」

「おしまい。そこで目が覚めたから」

バッツが見上げると、レナは小さく笑った。

「ね?なんだか正夢っぽいでしょ?」

「いーや全然」

身体を起こすと、バッツは伸びすぎた前髪を払いながら不満そうに口を尖らせた。

「言っとくけどなー、俺は割と清く正しく生きてるんだぞ?変な疑いを掛けられても困るんだよ」

「別に、何も疑ってるわけじゃ…」

レナは笑ったまま視線を外し、遠い山脈を見やった。
その夢から目覚めた時、頬が涙で濡れていたことなど言うつもりはない。

「…でも、本当に結婚する時はちゃんと教えてね。お祝いしたいから」

「よっぽど俺を誰かと結婚させたいらしいな」

バッツは拗ねたように横を向いた。

「残念だけど。俺はどっかの誰かさんと一緒で、まだまだ結婚なんて考えてないから。気楽な独り身が一番さ」

「そうなの」

レナは黙って前を向いた。バッツはまだそっぽを向いている。
突然レナは声を上げると、立ち上がって駆け出した。飛竜の塔、空へと続くその境界へ。
バッツが腰を浮かして叫ぶ。

「おい、何―――」

「見て見て」

レナは宙に両手を合わせて差し出したまま、嬉しそうに振り向いた。
あと半歩前進すれば落下するという立ち位置に、バッツが慌てて声をかける。

「いいから、戻って来いよ。危ないぞ」

「平気だから、早く早く」

「なんなんだよ…」

バッツは片足を引きずるような姿勢で、ゆっくりゆっくりレナの方へにじり寄った。視線は下を見ないようにするためか、宙に浮いている。

「あのさ…俺が高い所ダメなの、知ってるよな…?わざとか?」

声まで上擦っていた。

「見て見て」

レナの声に、バッツは仕方なく目を下に向けた。なるべく地面の方は見ないようにしながら、それでも震える足から力が抜けていくのに耐えながら、水でも掬うように捧げられたレナの両手を覗き込む。

「…花…びら…?」

「桜よ。中庭に植わってる樹が満開なの」

レナはニコニコして首を傾げた。

「すごいわよね…こんな高い所にも飛んでくるなんて」

「………そうか…?」

それよりこんな高い所に立っている自分の方がすごいと思う――そんな考えがバッツの頭をよぎったが、わざわざ口に出すほどの事でもなかった。

「…じゃ、戻るぞ。ほら」

バッツは棒立ちになった姿勢のまま、後退りしようとしてレナに手を差し出す。自分の驚きに同意してもらえなかったレナはどこか不満そうにその手を眺めたが、突然パッと身を翻して空中に踏み出す――ように見えた。バッツは咄嗟にレナの手を掴んだ。

「…何?」

「危ないだろ!」

「でもほら、また花びらが」

がっくりうなだれるバッツを不思議そうに眺めると、レナはふと微笑んだ。

「…ね。お願い、一つだけ聴いてくれない?」

「なんで俺が…あ、待った!行くな行くなやめろって!」

宙に踏み出す真似をするレナの腕を掴むと、バッツは高さに怯えながら一歩進み出た。

「俺を脅す気か?…いや、わかったから。なんでも聴くよ」

「ありがとう」

レナが微笑む。バッツはそろそろと手を離し、ほうっと息をついた。

「…まったく。あんまり無茶な真似するなよな」

「無茶?」

レナは悪戯っぽく笑う。

「無茶って何のこと?もしかして、この――」

もう一度身を翻したレナは、思いがけずバランスを崩して声を失った。
遥かな地面が、一瞬ぐっと迫って見える。

――落ちる……

ふわりと引き戻される感覚に、レナは我に返った。
振り向くと、バッツの青ざめた顔がそこにある。

「――だ、か、ら」

一語一語、語気を強めて吐き出すバッツは怯えているのではなく、怒っているのだとレナは気付いた。

「やめろって、何回言わせるんだよ」

「…ごめんなさい」

レナは素直に目を伏せる。

「もうしません」

「…全く」

震える息を吐きながら、バッツはレナの腰に回した腕を解いた。
代わりに腕を取ると、小股でゆっくりあとずさる。最初に立っていた位置まで戻ると、バッツはようやく元気を取り戻して動き出した。

「…脅すために人質を取るんなら、自分以外の人間を用意するだろ、普通」

「自給自足してみたかったの」

バッツが睨むと、レナは慌てて付け足した。

「…ほら、王女様って自分で買い物もしないし、割と他力本願な生き方してるでしょ?」

バッツはずっとレナを睨んでいたが、ふっと表情を緩めるとまたその場に座り込んだ。

「はぁ…ダメだな。勝てる気がしない」

レナもほっとして横にしゃがみ込み、ふと思い出してバッツの袖を引いた。

「…ね、お願い。聴いてくれるのよね?」

バッツは唖然としたようにレナを眺めていたが、降参、と自棄気味に言って両手を上げた。

「…はい。なんでもどうぞ!」



「裏が見たいの。さっきの、アミュレットの」

途端にバッツがぱたりと腕を下ろす。レナが見ていると、バッツはそのまま横になって目を閉じた。

「…死んだフリ」

「約束したのに」

「わかったよ…」

バッツはしぶしぶ襟の中に手を入れ、一度仕舞った銀鎖を引っ張り出した。レナが覗き込むと、紋様部分を見せる。

「それ、表よ?」

「わかってるって…」

バッツはそれでも諦めきれないらしい。板部分を手の中に握って何やら考え込んでいる。

「…なぁ、レナ」

「何?」

「さっき俺、お前を一度助けたよな?」

レナは首を傾げ、すぐに頷いた。

「ええ」

「その分、俺の頼みも聴いてくれないか?」

レナは一瞬考えた後、素直に頷いた。

「――ええ。いいわよ」

「よーし。今の言葉、忘れるなよ。…それっ」

バッツは息を整えるとパッと掌を開き、その上で板をくるりと回転させた。
銀は光を反射し、キラリと輝く。レナがあっと言って目を閉じた瞬間に、バッツはサッと手を握り、板を隠してしまった。

「…読めたか?」

「そんな一瞬で、何も読めるわけないじゃない」

レナが不満そうに言うと、バッツはにんまりと笑った。

「でも、見せればよかったんだろ?裏側を」

レナが唖然としている間に、バッツはさっさと鎖を仕舞いこんでしまった。

「さーて、俺はなんの頼みを聴いてもらおうかなー?」

「ちょ、ちょっと待って!」

レナが、縋るようにバッツを見上げる。

「もう一回だけ、見せて」

「ダーメ。お願いは一個だけって、自分で言ったんだろ?」

「そ、そう…だけど…。でも、もう一回」

「ダメな物は、ダメ。約束は約束」

今度こそ、レナが負けを認めて黙り込む。バッツは満足そうに笑うと、おもむろに自分の袖を捲った。

「さーて、俺の番…と」

手首に、細い麻紐が何かのまじないのように巻かれている。バッツはそれを静かに外した。

「…レナ、手を出して」

何をするつもりなのか、訝りながらもレナは片手を差し出した。

「あ、そっちじゃなくて…そう、そっちの手。あと、指は開いて…そうそう」

何やらブツブツ言いながら、バッツはレナの指の一本に麻紐をぐるりと巻きつけた。それをきつくもなく、ゆるくもない位置で解けないように結ぶ。

「…細いな」

レナの指から抜き取った麻紐の輪を目の前にかざしながら、バッツは溜息をついた。

「俺のなんか、同じ指でもこんなに太いのに」

「そう?そんなに太くないと思うけど…」

麻紐がしまわれるのを注意深く眺めながらレナが言うと、バッツはなげやりに手を振って否定した。

「こう見えても節がゴツいんだよ。剣士歴が長いと、こうなる」

麻紐から目を離し、レナはバッツが掲げた手に視線を移した。同じように掲げてみると、違いがよく分かる。
その手はレナのものより随分大きく、掌は広く、指は長く――そして確かに、固そうな節が目立つ。
レナは感心して頷いた。

「…本当ね」

「ま、どうでもいーんだけど」

バッツは、どうしてか気難しそうな顔で空を睨んだ。その横顔の向こうをの空を、淡い色の花が吹き上げられ、舞っているのが見えた。

「ね、さっきの紐はどうするの?」

「ヒミツ」

短く答えると、バッツは不意に顔を真っ直ぐ向けた。

「…もう一つ、頼みがあるんだけど」

レナが呆れてバッツを見返す。

「…さっき、一度聴いたじゃない」

「いや、俺は頼みは一つとは言わなかった」

レナは口を開きかけ、また閉じた。
迂闊だった。確かに、彼は一つだけとは限定していない。

「…何?」

「今度さ、二人でどこか遊びに行かない?」

レナは目を見張り、それから微かに笑みを洩らした。

「…それって、頼みって言うの?」

「うーん…あ、むしろ『提案』が正解か?」

照れたように笑いながら、バッツは「どう?」と付け足した。

「気分転換になるし、それなりに楽しいとは思うぜ?たまーに外に出てみるのも」

「そう…ね…」




レナは少しの間、考えるふりをした。それはとても楽しそうな提案に聞こえた。が、きっと受けることはできない。大臣や乳母が猛反対する様子が目に見えるような気がする。
彼もそれは分かっているはずなのだから、冗談で言っているのか――それとも、まさかとは思うが本気で言っているのか。判断しかねる。

「…わたしだけ遊びに行ったら、姉さんに悪いような気がするんだけど」

「その『姉さん』は今日はどうしたんだ?」

バッツの問いに、レナは黙って苦笑した。

「また脱走か?」

「別に脱走じゃなくて…うん、まあ似たようなものだけど…今日も子分さん達の様子を見に行ってるわ。夕方までには戻るって言ってたけど」

「『今日も』?」

バッツが勝ち誇ったように笑う。

「…ほら、『姉さん』はバンバン外に出てるんじゃないか。レナだけが我慢することないんだぞ?」

「う、うん…」

レナは曖昧に笑って頷いた。

「…じゃあ、わかったわ。行きましょう――いつか、ね」

「よし」

バッツが満足そうな顔でレナを見る。

「約束だぞ。忘れんなよ?」

「…うん」

「あ、あともう一つ。今度は質問」

次はなんだろうと見上げたレナの顔の前に、バッツはピッと指を突きつけた。

「次に来る時のおみやげ、何がいい?」

「え、おみやげ?」

これまでバッツがくれた奇妙な「おみやげ」の数々が頭をよぎる。
例えば、子供に渡したら喜ぶような甘いキャンディの詰め合わせ。ズーやガルラの巨大なぬいぐるみ。ピラミッドを象った文鎮。トゥール辺りで流布されている、レナ自身の肖像画――いや、それらはまだまともな方だった。ギサールの野菜でできたジャムなど、独特の匂いがあまりに強すぎて一度しか使えなかったし、「水に溶けると甘く変わる胡椒」などはうまい使い方が思いつかないうちに全て紅茶に消えてしまった。忘れられないのは「ガルキマセラの尻尾」などというものを渡された時で、あの時は嫌われたのかと一瞬本気で心配した。だが、バッツはニコニコしながら言ったのだ――それは幸運をもたらすって、ウォルスでは大人気なんだってさ。でも所持金が少し足りなかったから、俺がわざわざ本物を探して狩ってきたんだ。感謝しろよ――

レナは苦笑しながら首を振った。

「無理しないで。あまりお金もないんでしょう?」

「いやいや、確かにあんまりはないけど…全然ないわけじゃないぞ。遠慮しなくていいからさ」

「別に、遠慮してるわけじゃ…」

レナはふと思いついて口を閉ざした。

「…そうだわ、欲しい物があるの」

「本当か!?」

バッツが勢い付いたように身を乗り出す。レナは笑って頷き、バッツの胸元を示した。

「――それ」

「……?」

「その、アミュレット。同じ物が欲しいの」

バッツは服の上から鎖を抑え、怪訝そうにレナを見た。

「…これか?…こんなもんでいいのか?俺と同じので?」

「だって、ほら、綺麗じゃない」

言い訳のように付け足すと、レナは誤魔化すように笑いながら首を傾げた。

「…だめ?」

「いや、いいけど」

バッツは深刻に考え込むような顔をしていたが、ふと顔を上げた。
その顔はもう明るく笑っている。

「――よし、わかった。次に俺が来る時まで、楽しみにしてろよな」

「ありがとう」

にっこり笑うと、バッツも釣られたようににっこりする。数秒そのまま向き合い、やがてレナは堪えきれなくなって声を出して笑い出した。――何故だか、どうしてだか、嬉しくてたまらない。バッツは一瞬きょとんとしてそれを見たが、すぐに伝染して一緒に笑い出した。

天気は上々、まだまだ日は長い。
正体の分からない幸せ気分は、仕切りのない空にどこまでもどこまでも広がって行く。

――レナ様、バッツ様、どうぞ大広間にお越しください。
やがて畏まった若い小姓が二人を呼びに現れると、二人はまだ笑ったまま頷き合い、パッと競走するように駆け出した。
いつになく華やいだ声を上げながら階段口に消えていく主とその賓客とを見送りながら、取り残された小姓は戸惑い顔で瞬いた。その頬を、小さな花びらがかすめていく。



その一枚はやがて多くの仲間達に合流して上昇し、波のように弾け、うねりながらさらに昇り、輝き、海にも似た広さの青に溶けてゆき――









二日後の朝、バッツは再び旅立っていった。
舞散る桜の中、手を振っていつまでもその背を見送りながら、レナの顔は知らず知らずの内にこわばり、唇を噛んでいた。

次に会えるのは半年後か、一年後か、それとも二年後か?
その時自分は、相手は、一体どうなっているのだろう――


――どうか、わたしの愛しい全てが、何も変わりませんように…


だが、遠いと思っていた再会の日は、案外すぐに訪れることになる。
同時に、けして果たせない、と思っていた約束を果たす日も。


一つの変化を経て。

一つの決意を胸に秘めて。









>あとがき(らしき)

…えーと。春は暑くもなく寒くもない気候で気分が良いですよね。特に風の少し強い日などは電車に乗って海まで行きたくなりますし、春一番が吹いたりなんかすれば外に出てクルクル回っちゃいますよね(私だけか)…という気分を表したいなあと頑張ってみましたが、どうなんでしょう。(←訊かれても、という…)別名・リハビリ作文第一弾。
具体的なラブラブがあるわけでもなく(?)、ヤマもオチもなく、ひたすら二人の人間が淡々と会話しているだけ、でも何か最後に春っぽい印象が残る短い小品にしたいなぁ…という大それた野望をひっそりと抱いていたのですが、二人の会話がいつまで経っても終わってくれず、またまた見事に30kb近い長々話に…。それというのも、この話は実は先に書きかけていた「後編(仮)」の前振り&伏線用に書き始めたものだったりするので(←え)、ついつい「あの分の前振りも」「この伏線も」と欲張りすぎちゃったんですけど…なんだかそれなりに終わったので、こうなると後編、いらないかも?…という邪念が頭をもたげて来ます(殴)でも、このままだと謎が残りすぎですよね…。あ、あと、文中の微妙な位置で水平線を入れてみました。長いので、この方が読みやすいかと思ったのですが…(沈黙)。…どうなんでしょう。
[PR]動画