:雨だれ ざあ、ざあ、ざあ。 天で威勢良く引っくり返された巨大な桶の中身は、底なしだった――とでもいうように、その雨の音も勢いも少しも弱まる気配はない。 風が止まってからこちら稀に見る豪雨は、街から人影という人影をキレイに追い払ってしまっていた。屋根の下に雨宿る人影さえも見えない。どの街角にも広場にも響くのは石畳や白壁や木々の緑に打ち付ける雨垂れだけ。暗い無人の街には明かりもなく、ただ一帯を覆う影のような薄暗さが、ここをまるで捨てられた街のように薄寒く見せている。 そんな風景の片隅で。 (――寒い…) 降り始めの雨に中途半端に濡れただけの身体にも、寒さは容赦なく染み込んでくる。薄暗い中、地面から直に伝わってくる冷気に震えながら、レナは抱えた膝にはぁっと息を吹きかけた。暖かい――と思うのは一瞬で、たちまちやってくる冷たい空気が、いとも簡単に熱を奪っていってしまう。辛うじて熱の残った両手で擦れば、剥き出しになった肩も脚もどうしようもなく冷え切っている。レナ自身よりずっと背が低いとはいえ、気丈に頭上を覆ってくれている立ち木のお陰で雨粒の直撃を受けずに済んでいることだけが幸いと言えば幸いだった。そっと手を伸ばし、目の前を遮っている枝をそっと持ち上げる。途端に雨音が大きく近づいた。絶え間なく降り続ける水の向こうで、辺りの情景はまるで滲んだ水彩画のように輪郭を失い揺れている。レナはぼんやりとそれを見やった。あの細長い白はすぐそこで途切れた小道、濃い緑は街路樹だろう。灰色の塊は酒場の裏手だろうか、それとも―― 相変わらず人影はなかった。吐き出した息が、白い霧となって雨の中に立ち上る。まるで廃墟に置き去りにされたような心細さに、胸の内側を冷たい手が撫でていく。一人遥かな異郷に迷い込んでしまったような錯覚に陥りかけ、彼女は頭を振った。 自分は一人ではない。宿に戻れば、仲間たちが待っている。 待っているはずだ。 一人ひとりの顔を順に思い描き、レナは――顔を覆った。 思い描いた三つの笑顔。その中のたった一人、その碧い瞳が鋭く胸を刺して焦がした。 ごめんなさい、と思わず呟く。 ――そんなつもりじゃ、なかったのに。 そんなこと、少しも――わたしは。 わたしは―― 街外れの藪の中に生えていたその低木はレナの肩ほどまでの高さしかなかったが、天辺から根元近くまで幹が見えないほど緑生い茂った枝々と、その中にレナ自身をすっぽり覆ってくれる狭いが安全な空間を持っていた。とてもではないが、今ここを出て行く気にはなれない。偶然見つけたにしてはこれ以上ないほどの避難所だったが、あるいは逆に、白い雨糸に包囲された檻のようでもある。彼女に言い訳を与え、この場所に釘付けにして離さない。誰にも会いたくない―― 彼女はそろそろと手を伸ばすと枝を引き下ろし、寒々とした街外れの風景を追い出した。枝に遮蔽されたおかげで暗くはなったが、雨音と冷気は僅かに遠ざかる。レナはそっと息をつき、それから自身が閉じこもった空間を小さく見回した。低木の茂みの中とはいえ、常に縮こまっていなくてはならないほど狭い場所ではない。ごろりと横になって手足を休ませることも可能かもしれない――こうも寒くなければ。窓を開けっ放しにしてきてしまった宿の自分の部屋のことがちらりと頭をよぎったが、こうなったら仕方ないだろう。 細い幹に背を預け、そろりと足を伸ばし――梢のすぐ向こう、雨の中に誰かの両足が並んでいるのに気付いて、レナははっと息を呑んだ。 ――まさか。 心臓が早鐘を打っている。 (まさか…――) 枝が揺れて持ち上げられ、開いた空間を人影が代わって塞ぐ。 彼女は喘いだ。今は、今だけは会いたくないのに―― 見えたのは、濡れて黒ずんだ革の長靴だった。そこから濡れた膝、ベルト、襟、喉元へと目を上げて。 額にべったりと張り付いた茶色い前髪から、水が筋になって流れている。碧い両目を避けて流れるそれは、何故か血の流れを想像させた。白い袖は張り付いた肌色が透けるほど、青い布地は血を吸ったような重苦しい黒かと見まごうほどに濡れている。無言で入ってくる彼の背後で枝が下りると音と光が遮られ、薄暗い狭い空間に目が慣れるまでは得体の知れない濡れた塊が入ってくるようだった。どことなく、気味が悪い――そう思った一瞬、確かに目が合ったような気がした。 見開かれた碧い双眸は多分に虚ろで、そのくせ深い所では目に映る彼女の逃げるような態度を吟味しているのに違いなかった。彼女も、こちらは驚きで大きく見開いたままの目で見詰め返す。 「…バッツ」 思わず声が震えた。 感情の抜け落ちたような相手の瞳の最奥に、微かな疑念の種が浮かんだ。それが一秒ごとに大きく膨らみ、やがては憎しみに変化して破裂――する前に、レナは口走っていた。見られることが恐ろしくてたまらなかった。 「…ごめんなさい」 そんなつもりでは――わたしは。 分かっていることは――償わなくてはならない、ということ。それならば。 わたしは。 素早く背に回された彼の両腕を振り払うこともせず、彼女はただ震えた。 そのまま身体が折れるほど抱き締められ、激しく口付けされたことはショックではあった。が逃げることも出来ない。濡れきった彼の髪の先から、ぽたぽたと滴が垂れてくる。冷たい唇。水の味がする。額も頬も鼻筋も顎までも濡れている。貪るように動く舌だけは生温かい。強く押し付けられた胸に背にスカートに、相手の服にたっぷりと蓄えられた水が冷たく染み込んでくる気味悪い感触。腕を彼の背に回すと、そこもぐっしょりと濡れて張り付いている。指先に、背骨の流れがくっきりと感じられるほどに。 唇が離れた隙に、彼女は俯いた。素早く相手の肩にしがみついて、囁く。 「そんな、つもりじゃ、なかったの……初めは、わたし」 「…あいつの欲しいものなんか、俺は知らない」 意外に明るいと思えるほどの声で――押さえつけた感情の激しさがはみ出した声で、彼は鋭く囁いた。 「知りたくもない。――なのに、あいつは知り尽くしてる! 俺にも分からない俺を、俺の」 欲しいものを―― レナは唇を噛んだ。雨音が遠く聞こえる。 「リックス、リックスは……故郷。俺の。俺のだ、それをわざと奪った、あいつは、……許さない」 熱に浮かされたような独り言が続く。身体に回された腕に、更に力が込められる。レナはそっと顔を伏せた。 「…あなたにこんな思いをさせるつもりはなかったの。こんな重い旅になるとは思わなかったの。会ったばかりのあなたについて来て欲しいと思ったのは、ただわたしの――」 あはははは、と唐突に笑い声が上がった。顔を上げると、バッツが笑っている。場違いなほどに明るい声で、 「だけど、見ろよ!あいつ、レナだけは取りこぼしやがった。もう少しの所で取り返してやった!もう二度と返してやるつもりもない。怒ればいいんだ。悔やめばいい。憎めばいい。俺だって、同じだけあいつのことを――」 そう言って唐突に黙り込む。彼は頭を下げると肩を震わせながら、小さく囁いた。 「――殺してやりたいと、思ってる」 乱暴な言葉とは裏腹に、囁く声は微かで聞き辛く、身体は戦慄きを止めない。 レナは静かに目を上げた。いつもの明るさなど微塵もない。冷たく濡れた横顔は俯いて、瞳は憎悪に暗く――そのくせどこか心細げに、揺れていた。 ああ、と思う。 どうしてわたしは、この人を巻き込んでしまったのだろう―― (ごめんなさい) 腕を伸ばすと、無言で肩に顔を伏せてきた。その背をそっと撫でてやる。突然力が抜けた彼の身体は、どうやら震えているようだった。寒さのせいでは、多分、ない。未だに水を垂らし続ける後ろ髪をちょっと撫で、その頭を抱きしめてやった。 低く漏れたのは、嗚咽のようだった。 ――初めは、ただ、一人が心細かった。はじめて見上げた旅人姿の若者の、なんと逞しかったことだろう。彼は何でも知っていて、何でも出来るようだった。親切で優しく、けれど剣を振るえば敵はない。快活な笑顔にたまによぎる影もまた、たまらなく気を引いた。好きなのだと――出会った瞬間から好きになっていたのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。 (……だけど、わたしは) 結局、その勝手な想いで巻き込んでしまっただけで。 彼の大切な<自由>を奪ってまで重荷を負わせて。 苦しい目にばかり遭わせるようなことをして。 ふと目をやると、梢の向こうが微かに明るくなっている。小雨になったらしく、雨音が随分と小さい。 さやさやと優しい音が、いっそ耳に心地良かった。 思う。雨ならば―― (……いつか、止む。それは、必ず) けれど心の傷は。 舐め合うだけでは何も変わらない。償いにも転換にも、何にもならない。 被虐的な感傷だけでは、どこへも行けない。この人は救われない―― 動かないバッツを抱えたまま、目の前の暗がりをじっと見詰める。 (とにかく、どこかへ…) ここはあまりに暗すぎる。 どこか、ここよりはもっと希望の見える場所へ。取り返しの付かないところまで行ってしまう前に、動かなければ。 けれど。 それならば、どこへ行けばいいというのだろう。闇はどこにでもあるのに。 それに、――地上の暗さなど、どれほどのことがあるだろう。 一番暗い場所は、もう見てしまったというのに。 (厭……) ふっと思い出した恐怖に、レナは怖気をふるった。 どんな黒より暗く、どんな縁より深い、くらやみを見た。 ひとりだった。 見捨てられたのだと、自分は世界で一番孤独なのだと、思い込んで。 あまりに恐ろしくて、寂しくて、悲しくて――悔しくて。だから、差し伸べられた手を簡単に取ってしまった。 在る、ということはそれだけで奇跡なのだと知った。無には何も望めない。 だから、受け入れた。例えそれが紛い物の居場所でも。単純な罠だったとしても。 ――そしてなんとも狡猾なことに、気付いていなかったわけではないのだ。 結果を知っていて、けれど認識に蓋をして、気付かないふりをして。 こころと身体を、責任ごと他人に明け渡すようにして。 実を言えば、どちらでも構わないような気分ではあったのだ。 ただ、欲しかった。 失くしたはずの、手が届かなかったもの。それが自分の物になるのなら、相手が生きていなくても構わない。 冷たい身体を膝に寝かせて、優しく髪を撫でてあげよう。聞こえない耳に唇を寄せ、密やかな愛を囁いてあげよう。どうせ一方通行の想いなら、相手がどうでも、同じではないか。 ――殺してでも、あなただけは、手放すわけには行かない。 何食わぬ顔で自分は、自分の身体が仲間たちを傷付ける様をぼんやりと見物していたのだ。 もしも、それを止める存在がいなかったなら、今頃は――? それを考えることはあまりに恐ろしくて、できれば見ないふりをしていたい。 けれど現実を見てみれば。あの孤独で陽気だった旅人を、ここまで打ちのめしたのは誰だろう。 彼を絶望の縁に叩きやったのは、何だっただろう。 たまたま明るい陽の下に引き戻された自分。しかし彼の故郷を奪ったのは、場合によっては自分だったかもしれないのだ。 細い雨糸がさらさらと地を叩く。 柳の枝が風にさやぐような、そのかぼそい音に混ざった微かな囁きが、くらやみに呑まれかけたレナの思考を呼び戻した。 「……ばかなレナ」 背に回された腕が、力なく肩を抱く。 ぐったりともたれかかったまま、バッツが囁いてくる―― 「正直に、ついてくれば良かったのに。怖い思いなんてしなくて済んだのに。俺が――」 ――死にたい思いをしなくて済んだのに。 レナは頭を振った。何を言っていいのか、わからない。 「……だけどいいんだ、それはもう」 「……ッ」 レナは目を見開いた。肩に触れた手が俄かに力を取り戻し、爪を立てて抉るように食い込んでくる。逃げるように仰け反る身体が締め付けられ、唇から細く声が漏れる。 必死に見上げた先には、碧い双眸が冷ややかに彼女を見下ろしていた。恐ろしく感情のない声が、低く呟く。 「もう大丈夫。あいつなんかには渡さない。あいつなんか――他の誰にも……」 「バッ……」 「だから、安心して、ここにいて」 「わたしは―――…!」 言葉は唇ごと奪われた。 冷たい唇が何かを請うように――乱暴というよりはいっそ切実に動く。執拗に絡む舌だけは熱い。離れない。 レナは喘いだ。視界が霞む。頭の奥が痺れる。これは、いけないこと――そんな罪悪感の裏に湧き上がる、正体不明の甘い感情。 遠く、雨音。 冷え切った唇が触れ合ううちに熱を持ち始め、無意識のうちに伸びた腕が彼の頭を包み、背を撫で、髪に指を絡める。 濡れた服越しの体温。あたたかい。どうしようもなくあたたかい。 理由の分からない涙が、火照った頬を滑り落ち―― ばかなレナ。 頭の奥で自分を叱咤する声も弱い。他ならないこの弱さが彼を傷つけたというのに。 ああ。声にならない嘆息。 弱いのは、二人とも同じだ。誰でも、同じだ。それでも傷を舐め合い、時をやり過ごしあいながらでも、生きていく。 生きていかなくてはならない。闇はどこにでもあるのだ。 まやかしの希望に縋ってでも。 時に誰かを傷付けても。 後悔することがあっても。弱さを抱えて生きていく。 いつか、晴れ間が見えることもあるかもしれないから。 ――ようやく唇が離れた時、それでもまだ雨音は聞こえてくるようだった。 弾んだ息が収まらない。レナはバッツの肩に頭を置いて、目を閉じる。大きな手が、この上なく優しく髪を撫でてくれるのを感じた。 気だるくなるほどの心地良さにうっとりと浸りながら。 彼女は。 力なく垂らした腕をそっと持ち上げ、指先に触れた枝から葉を一枚、ぷちりと毟り取った。 雨はまだ止まない。 世界はますます激しくなる雨に白く滲んで。 まだ当分、この狭い世界に二人を閉じ込め続けるつもりらしい―― ・あとがきらしき・ |