雨は、終わりなどないかのように降り続く。
髪も服もすっかり水を含んで重い。地面に向けて水を滴らせ、足元に水溜りを作っている。
天を向く。幾千幾万の雨粒が、針のように尾を引きながら落ちてくる。
目を閉じる。顔に肩に腕に、次々と降りかかる滴たち。
彼らは落ちてくる。選ぶこともできず、ただまっすぐに、ここに向かって。

ここに。

天の高さの果てはどこか――
大地の最も深い奥はどこか――

そんなことは知らない。
ただ、その目も眩むほどであろう高さから放たれた一滴が、落ちて落ちて、やがて瞼に触れる、その確率の絶望的に小さいことはわかっている。ふっと湧いた厳粛な気持ちに恐ろしいほど身体は縛られ、こうして今まで動けない。
雨粒が額を打ち、頬を打つ。熱烈すぎる雨の口付けに、息をすることも出来ない。閉じた目の際を、水が流れていくのを感じる。どれだけ知恵を持ちどれだけ力を持った人間がいくら束になろうとも、決してどうすることもできない自然のちから。屋根を立て火を起こしてその水と寒さをやり過ごすことは出来ても、そのものを止めることは決してできない。雨に打たれる、広大な大地。広い世界。その真ん中辺り、目を凝らせば見えるかもしれない、ちいさなちいさな豆粒のような自分の身体。
あまりに広い世界の前に、あまりに無力な自分。
人間。
この広すぎる世界を、たった四人で救わなくてはならない。冗談のような真実に、今更ながら身体が震える。
これから行くのは、あの真っ暗な世界。<無>に最も近い場所。世界という最も大きな<存在>とその対極である<無>を行き来する。それをするのが自分だなんて。命ひとつで払いきれるものだとは到底思えない。
目を開くことが出来ない。動くことも出来ない。息もできない。
どうせ逃げることは出来ないのだ。
雨に打たれるまま、水の滴るまま。大地に縛られ空に魅入られ。
世界の前に全てを捧げる、まるで生贄のように。
ただ畏れだけを胸に抱いて、震えながらその運命を待つ――

雨の中で。





:雨のち晴れ






ふと。

囁くような微かな気配に気を取られて窓を見ると、外がけむったように白い。
タイクーン城、天守閣・飛竜の塔を上る回廊。天にも届くかと聳える巨塔とはいえ、その中腹まで雲が下りてくるのは珍しい。かといって霧が上ってくるほどには低くはないはずだ。
一拍置いて、雨が降ってきたのだと気付いた。連なった白い糸のような雨垂れが、無音のうちに辺りの風景を霞ませている。

レナは窓辺に歩み寄ると、静かに硝子戸を押し開けた。キィッと天井近くで音がして、途端に湿った風がゆるく流れ込む。レナは目を閉じて微笑んだ。ひんやりと冷たい空気が頬を撫で、唇に触れ、髪を微かに揺らしていく。

(……涼しい)

雨音はほとんど聞こえない。見通しのきかない広大な世界の低みから、遠く谷川のせせらぎに似た音が微かに微かに耳に届く――聞こえるものはそれだけだった。天から滴るしずくたちが、葉を叩き、枝を叩き、森を揺らし。屋根を叩き、窓に吹き付け、やがて流れて地に落ちる。雨音の生まれるそれらの場所まで、ここはあまりにも遠すぎる。
窓をいっぱいまで押し開けると、吹き寄せる風が強くなった。前髪が浮いて、額にそれを感じる。長いドレスの裾がふわりと揺れ――それでも、滴は大きく張り出した軒に遮られてここまでは届かない。窓枠に手をかけ、つま先が浮くほど身を乗り出し、長手袋で覆われた片腕をいっぱいまで伸ばして、それでもまだ。

(……届かない。そうね)

ふぅ、と吐き出した白い息だけが、雨の中へ緩やかに溶けていく。ゆるゆると腕を縮めると、レナは廊下に降り立った。分厚い絨毯が柔らかくその両足を受け止める。外は薄暗くて寒い。少し身を引くだけで、明かりの灯ったこちらはこんなにも暖かい。窓を閉めてしまえば微かな外界の音も遮断され、完璧な静寂に戻ることが出来てしまう。簡単なことだ。レナが雨の降る下、大地に近く暮らしていた期間は短く、ややもすれば忙しい日々に埋もれてすっかり過去に埋没しようとしているのだから。雨はガラスの向こうのただの現象としてのみ目に映るようになり、やがてはその冷たさも苛酷さもありがたさも、――その中での、思い出も。やがては安穏の時の内に洗い流され、全てを忘れてしまうのだろう――

「……いいえ」

小さく呟く。そんなことがあってはならない。あるはずがない。
目を閉じればありありと浮かんでくる、あの日あの時。様々な場面。屋根や枝の下で雨をやり過ごす時間の目安や、その冷たさへの対処の仕方を教わったりもした。濡れた肩、捲くった袖に濡れた腕。囲んだ火の暖かさ。笑い合っていた顔。暗闇にでも弾けた、明るい笑い声――それは、皆の思い出。
肌を流れる水の冷たさ、濡れた服の重さ。髪から落ちる滴。流されるような心細さ。囁く声。怯えた心ごと抱いてくれる腕の強さ。濡れた服ごしにでも伝わる、寄せ合った身体のぬくもり――それは、二人の思い出。

目を開けば、誰もいない。何も聞こえない。何もない。
しんと静まった廊下の真ん中で、それでも、レナは頷いた。

――大丈夫。まだ思い出すことが出来る。

今は、まだ。それでも時には不安になるから。
レナはもう一度、開いたままの窓に手を掛けた。今度は身体を持ち上げることはせず、上体だけを窓から覗かせる。目は、白く霞んだ上空を見ていた。この辺り一帯に広がっているであろう、灰色の雲。その下に、等しく注がれる雨。打たれる大地。

(――あなたは、そこにいますか)

祈るような問いかけに答えはなく。
レナはもう一度、今度はそうっと腕を伸ばして宙にかざした。
真っ白な、冷たい、広い世界。遠く、出来る限り遠くに意識を広げて――
触れたいのは。

(どうか)

あなたに。
何億もの中の、たった一粒の雨水でいい。もしも、できることなら。
どうか、あの人に、わたしの――

さらさらと音がする。
音もなく吹き寄せた風は、レナが伸ばした白い指先をくすぐるように撫で、優しく顔に触れて霧散した。







どこからか、ふつりと生まれたそれは。
たった一粒。遥かな距離を落ちていく。
霧中の白を抜け、切れ目なく広がる大地を見下ろし、黒々とした森に近づき、揺れた枝をするりとすり抜けて。
やがて。

――ぽつり。

唇に当たったそれは、ぺろりと舐めるとほのかに甘いような気がした。
バッツは、ゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした視界に、黒々とした梢が天井のように被さっているのが見える。湿った土の匂いが鼻を突いた。遠く、ざわめく森の音。

(雨……か。まだ止んでないみたいだな)

ということは、今のは? 寝ぼけた頭で考える。
この厚く生い茂った葉をくぐり抜けて、雨粒が落ちてきたとでもいうのだろうか。

(ま、たまには、そんなこともある……かもな)

草の上に寝転んだまま、漠然と納得。もう一度目を閉じて深呼吸すると、勢い良く起き上がった。
途端に目に入るのは、火の消えた焚き火跡。寝ている間に消えてしまったらしい。どうりで寒いはずだった。
あくびを噛み殺しながら右手で頭を掻き、左手を組んだ枝に向けて、

「…ふぁいあ」

ぼっ。それで明かりとぬくもりが戻る。
両手を火にかざしながら、バッツはなんということもなく辺りを見回した。
森だ。視界の右端から左端まで、どこを見ても森の木々しか目に入れることが出来ない。ずっと北に向かえばタイクーン城、その裾野から扇状に広がる大森林の、ここは西の端に位置している――もしも方位を読み違えることさえしていなければ、そのはずだ。
滝川でも近くに流れているかのような騒音。雨は、森の中にいる者にも容赦ない。天井代わりの枝葉を激しく叩き、その隙間を突いて流れ込んでは森の地面のそこかしこに小さな流れや泥だまりを作り上げ、進行の邪魔をする。ここまででも革靴は既に泥まみれ、湿気を吸い込んだ服は重く肌に張り付き、不快な邪魔ものでしかない。が、それは雨が降ればいつでも起こることだ。
だから。気になったのは、そんなことではなく――
不意にバッツは顔を上げ、焚き火の向かい側を――その姿を火に赤々と照らされている、茶色い毛並みの小さな生き物を見やった。

「…お前、どこから来たんだ?」

ぱちくりとつぶらな瞳を瞬かせたそれは、ナッツイーターだった。敵意は感じない。この森だけでなく、世界中わりとどこでもよく見かける生き物だが、群れるのが基本である彼らがたった一匹で行動するのは珍しい。迷子かと思ったが、心細げな素振りはない。いかにも当然と言った顔で立っている。孤独が好きなのか、それとも単に不器用なのか。ともあれ、なんとなく親近感を感じてバッツは笑いかけた。

「寒いんだろ? いいぜ、当たっていけよ。今なら腹も減ってないから、俺からは何にもしないぜ」

言葉を理解したとは思えないが、歓迎する気配ぐらいは分かったのかもしれない。もう一度ぱちくりと瞬いたそいつは、ぽてぽてと火に近寄ると乾いた場所を選んでどっしりと座り込んだ。客のくせに、なかなかに態度がふてぶてしい。どこに隠し持っていたのか、おもむろに木の実を取り出して齧り付いた。一人で晩御飯、というわけか。
ふーん、と呟きながらそれを見守る。珍しいといえば、火を怖がらない獣というのも珍しい。

「ま、何にでも例外はいるってことだよな…」

語りかけると言うよりは独り言のように呟いて、バッツはふうと息を吐いた。
見えない空を見上げ、小さく笑う。

「雨、まだやまねえなー…」

そのとき頭に浮かんでいたのは、雨に濡れそぼった細い小さな後姿だった。
矢のように降り注ぐ雨に打たれるがまま。安全で暖かな屋根の下に逃げることもせず、ただじっと天を見上げ、彫像のように動かない。
閉じた目の際を、水が流れていく。濡れて平らになった桜色の髪は重く垂れ、先から滴が垂れている。
近付いても動かない。濡れた頬にそっと手を当て、濡れた唇に唇を重ねた。微かに息が通って、薄く開いた瞳は夢見るよう。心ここにあらず、どこまでも透明に澄んでいて、それはまるであふれる水。冷たく、色も匂いも持たず、けれどほのかに甘い。囁く言葉は豪雨にかき消され、冷えて強張った指先が何も感じなくても。しっかりと抱き合い、もう一度唇を交わし、そのままじっと、雨に打たれるまま、いつまでもいつまでも動かない――

気配を感じて顔を上げると、すぐ横にあのナッツイーターが移動してきたところだった。
きょとんと瞬いて首を捻り、とぼけた様な顔でこちらを見上げている。
小さな手にはしっかり、齧りかけの木の実を持っていた。

「…は? もしかして、隣に座りたいのか? …いいけど」

横手の草を叩いて示してやると、そいつは本当にやってきてちょこんと座り込んだ。
そのまま何をするでもなく、ぼーっと火を見ている。

「…お前、人懐っこいなぁ…」

呆れながら、同じように火を見やる。

「お前、雨が止んだらどこに行くんだ?」

ナッツイーターは答える代わりに、横目でちらりとこちらを見やったようだった。

「俺は…悩んでるんだ。ここからトゥールに行こうか、それとも思い切って」

タイクーンの知り合いに会いに行こうか。

「お前、どっちがいいと思う? お前が俺なら、どっちを選ぶ?」

さあね、とでも言うように相手は鼻を鳴らし、短い前足でその小さな頭をぼりぼりと掻きだした。
バッツは苦笑した。

「そんなのは自分で決めろ、ってか…まぁ、正しいんだろうけどさ」

腹立たしいほど賢い上に、どうにも人懐こい獣だ。
それとも知らなかっただけで、ナッツイーターは皆こんなものなのか。
とはいえ、と思う。
物言わぬ獣と並んで座っている自分の姿は、人が見ればさぞ滑稽だろう。
バッツは軽く、そ知らぬ顔でまた木の実を齧り始めた獣を睨んだ。
どうせ一緒に雨宿りするのなら。あの日あの時、最後になるかも知れなかった雨の中で畏れ、ただ濡れていた、小さな後姿の――

「……お前じゃあ、なあ」

相手の狭い額をつつこうと出した指は、しかし簡単にかわされた。
さすがに野生らしく素早く逃げたナッツイーターは少し距離を開け、用心深そうな目でこちらを眺めている。
バッツはため息をついて笑いかけた。

「冗談だよ、悪かったって」

ナッツイーターは伸ばされた腕を拒むように顔を背けた。

「ったく…頑固だなお前」

おかげさまで、とでも言うようにナッツイーターは鼻を鳴らし――それから不意に顔を上げると、あたりを伺うように素早く首を動かした。考えるようにぱちくりと瞳を瞬き、一瞬の間を置いて一目散に駆け出す。

「あ」

と思った時には、そいつの姿は森の深くに消えた後だった。
ぱちり。
火のはぜる音で我に返ると、バッツは相手を引きとめようと伸ばしていた腕を、慌てて引っ込めた。
そのまま、なんとなく頭を掻く。誰に見られているわけでもないが、照れ隠しのつもりだった。

「さーて…また一人、か……」

完全な独り言を呟いて、枝を見上げる。雨音はまだ止まないようだった。

「雨が止んだら、決めなくちゃな。行き先」

踊る火の中に、ぼんやりとあの後姿が浮かんで見えた。
立ち尽くす姿は、泣いているようにも見える。頭を上げて、決然と戦いを挑んでいるようにも見える。
か弱い肩の線が小さく震えて――

「…わかったよ」

頭を振って幻を追い払うと、バッツはいかにも腹立たしいように呟いた。
もちろん、自分への言い訳でしかないことは自分で分かっている。
それでも、本当は初めから決めてあったのだ、と認めるのはなんだか恥ずかしい。

「簡単さ。…ちょっとお姫様の部屋に忍び込んで、雨を怖がってないか、見に行けばいいんだから」

くすりと笑う。
もちろん、彼女はもう雨に怯えることなどしていないだろう。彼女は雨になど触れられない暖かな部屋の奥で、大切にたいせつに守られて暮らしているのに違いないのだから。そうでなくては困る。ただ、部屋にずぶ濡れの自分を見つけてどんな顔をするか、自分はどんな顔をしてやろうか、それを想像するとなんだか微笑ましい。
ともかくも。

「何もかも、とにかく雨が止んでから、だよな」

再び、ごろりと寝転んで目を閉じ、大きく息を吐く。
ふと思いついて目を開き、そっと自分の唇に触れた。
先ほど滴が触れた位置を探り当てると、そっと笑う。目を閉じる。
草の匂いがする。土の匂いがする。薪がはぜ、森がざわめく。
風が吹いて、そして――


雨が止むまでのひととき。夢は、ひどく甘い味がした。






・あとがきらしき・
バツレナ祭4th用に書いたものです。お祭り期間終了につき、里帰りしました。
他所に展示する、が前提だったので、中身などちょっぴりよそ行き仕様になってます(…?)。
要するに、気合は入ってます。…それにしても、「よそ行き」を自宅に置くことがこんなに恥ずかしいなんて…! なんだか、あからさまに空気が違って可笑しいんですけど。こんな風に感じるのは、書いた本人だけ…?

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